分業の悲劇

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単純作業はつまらない。アダム・スミスは分業の利点が『人民の最下層まで行きわたる社会全般の豊かさをもたらす』ことにあると発見した。たしかに、「国富論」の冒頭にあるピン工場の描写が示すように、分業によってヒトは量的な生産性の向上を達成することができる。だが分業は必然的に大量の単純作業を生みだす。「モダン・タイムス」でチャップリンが演じていた労働者のシーンを想起するまでもなく、単純な作業を繰り返しやらされることでヒトは消耗してしまうのは明らかだ。なにかしらの工夫の余地、創造性の発揮、遊びの要素、やる意味を見いだせない作業をヒトは好まない。小学校では掃除の時間に真面目に掃除をする人は少数で、ふざけて遊ぶ子どもが多かったはずだ。皿洗いだって数日やらされるともう飽きてしまう。飽きた先にあるのは退屈と苦痛である。むしろ人間は複雑な作業、難しい問題を欲し、それに打ち込むことに喜びを感じる。「人間の建設」で小林秀雄も、『むずかしければむずかしいほど面白い』という。しかし生活の資を稼ぐために、われわれは単純作業から逃げられない。

アダム・スミス自身もそれに気づいていた。

“おおかたの人間の理解力というものは、かれらが従っている日常の仕事によって必然的に形成される。その全生涯を、少数の単純な作業、しかも作業の結果もまた、おそらくいつも同じか、ほとんど同じといった作業をやることに費やす人は、さまざまの困難を取り除く手だてを見つけようと、努めて理解力を働かせたり工夫を凝らしたりする機会がない。…こういうわけで、かれは自然にこうした努力をする習慣を失い、たいていは神の作り給うた人間としてなり下がれるかぎり愚かになり、無知になる。その精神が麻痺してしまうため、理性的な会話を味わったり、その仲間に加わったりすることが寛大で高尚な、あるいはやさしい感情をなにひとつ抱くこともできなくなり、結局、私生活のうえでの日常の義務についてさえ、多くの場合、なにもまともな判断が下せなくなってしまう。自分の国の重大で広範な利害についても、まったく判断が立たない。”このように、分業は世事に疎い者たち、つまり合理的無知な大衆の形成にも一役買っている。

「私利の追求」と「競争」をエンジンに動く社会の悲劇は、「社会全体の福祉の増大」のために、個々の人間がいびつな成長を遂げてしまうことにある。国富論を読んでいたかはわからないが、夏目漱石もそれに気づいていた。「私の個人主義」の中の「道楽と職業」で彼は以下のように述べている。


“私の見るところによると職業の分化錯綜(さくそう)から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々片輪(かたわ)な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売がしだいに専門的(かたむ)いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三乃至(ないし)四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事皆目(かいもく)分らなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、あたかも自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者打崩(うちくず)しつつ進むのだと評しても差支ないのであります

(ごく)の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身(まと)うものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき点において、また生活上の知識をいっさい自分に備えたる点において完全な人間と云わなければなりますまい。

ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものはどこをどう尋ねたって一人もない。この意味からして皆不完全なものばかりである。のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、ただ狭く細くなって行きさえすればそれですむのである。ちょうど(はり)掘抜(ほりぬき)井戸を作るとでも形容してしかるべき有様になって行くばかりです” 食うためにはこのことにも耐えなければならない。

大量生産・消費社会のもう一つの悲劇は、ひとりひとりの人間は世界中の他人の分業に助けられているにもかかわらず、そのことに想像力が及ぶことは少なく、人間同士の争いはなくならないということだ。「君たちはどう生きるか」で吉野源三郎が登場人物に言わせていることだが、粉ミルクという財を生産するにも、オーストラリアの羊が出した乳が、リレーのように様々な人の分業を経て私の手元に来ている。しかしあまりに生産関係が大規模・複雑になったせいで、労働者は自分たちの食べる物や着る物を見ても、いったい誰がこのために働いたのかわからなくなってしまった。結果その製品の生産に対する感謝の念は薄れた。「Made in China」というラベルからは、それが作られた国しかわからない。しかし実際日本人と中国人は相互に依存しあっている。この2国だけでなく、見たことも会ったことのない世界中の人が、網目のようにつながって支え合っている。もちろんすべての人と知りあうことは時間的にも空間的にも困難だが、支え合っている人同士が相変わらず赤の他人でい続け、憎み合ったりすることは奇妙なことである。

こんにちのように物にあふれたゆたかな社会を作り上げるために、人間が払っている犠牲はけっこうデカい。


Mr.Children「彩り」Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=Qg8-a4xq_o8


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by healthykouta | 2014-04-29 13:02 | 世俗の思想家 | Comments(0)