責任について

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なぜ「責任」というコンセプトがあるのか。


敗戦後、「戦争責任」を問われた小林秀雄は言った。

「僕は政治的には無知な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。…この大戦争は一部の人達の無智と野心から起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。(コメディ・リテレール)」


責任という概念を考えるにあたっては、「自由意志は存在するのか」を問わなければならない。もし自由意思があれば、ある行動の結果として起きた事態には責任が生じ得る。もし自由がなければ、ある結果は「必然」であって、それを起こした者に責任は求められない。小林秀雄は後者の立場だろう。


この文章を公園のベンチで読んでいるとしよう。いま、あなたの目の前をハトが通りかかっている。あなたは、かばんから豆を取り出し、ハトに向かって投げる。その豆をハトが果たして食べるか食べないか、ハトは自らの意思で選択しているのか。それとも遺伝子レベルで組み込まれた生存本能がハトをして食べさせているのか。それとも経験的に身につけてしまった反射によるものか。とにかく、何か自分の意志の外にある要因によって食べることを強制されているのだろうか。


同じ問いを、人間の営みに対しても発する。テレビで俳優が美味しそうにビールを飲んでいるCMを見て、コンビニにビールを買いに行く人は、自分の意思でそれを選んでいるのか。それとも広告代理店の仕掛けたマーケティング戦略に操られて行動しているのか。会社説明会で聞いた内容を基に志望動機を用意する就活生は、採用する人事によってつくられたイメージを欲しがらされているだけではないのか。日本人の一部が太平洋戦争を起こしたのは、最終的には彼らの意思だったのか。それとも資源がひっ迫したことによって、または諸外国からの圧力に屈して、強制的に、有無を言わせず戦わされたのか。福島原発事故を起こした責任は、電力会社だろうか。原子力ムラなどと呼ばれる、原発推進に利益を持つ政治家、経済界、官僚、マスコミたちが悪いのだろうか。それとも事故が起きるまで電気がどこから来るのかも何も知ろうとしなかった国民全体に責任があるのだろうか。殺人を犯した人が、幼少時に虐待を受けていたらそれでもその人に責任を負わせられるか。じゃあ飢えて今にも死にそうな人が食べ物を盗んだときはどうだろうか?


現実には起こり得ないが、以下のような思考実験をする。いまここに全く同じ状況に置かれた異なる2人の人間AとBがいるとする。(たとえば、開戦の最終決定をする参謀。戦時中に徴兵されて参加するか迷う学生)もちろん2人はある行為の結果なにが起きる(た)かは完全に知ることはできない。(日本が戦争で負けたという歴史を学んでから、タイムマシンで開戦前に戻って戦争を反対することはできない。)このとき、ABは、異なる判断・行動をとりえるかどうか。もし、ABも同じ行動をとってしまうとしたら、そこには自由意思はなく、もっと大きななにか(運命、それまでの過去のすべての因果、遺伝子など)が必然的にある結果を起こしているといえる(決定論)。でももし、AXという決断を、BYという異なる決断をすることができるのなら、ABには自由意思があるといえるのではないか。


私は、個人の「意志」が「状況」に優先し、自由に行為を選択できるのであれば、責任は生じえるし、「状況」が「意志」に優先すれば、そこに自由はなく、責任は問えないと考える。しかしその答えを知ることはできない。はじめに書いた通り、このような思考実験は現実には不可能だからだ。特に、「全く同じ状況に置かれた、異なる存在AB」というシチュエーションを現実に用意することはできない。


すると責任とは、社会の要請に基づいて、便宜的につくられた概念だとわかる。ある行為をした主体が、自由意思で以てそれをしたのか、そうでないかはわからない。しかし、集団が存続するためには、ある行為の結果の責任がだれかに求められなければならない。さもなければ、あらゆる違法行為が、罰されずに行われることになる。私が自分の境遇を恨む失業者に傷つけられても、貧しい家で親に虐待された同級生にいじめられても、インドで財布をすられても、殺されても、彼らに責任がなければ、許さなければならなくなる。無責任な社会とは、みんなが自分の運命を言い訳にしながら、何でもしてしまう世界だ。当時の加害者の事情を鑑みれば、仕方がないことだった、起こるべくして起こったという言葉の下に。当時の状況に鑑みれば、陸軍軍部も、ナチスも、東電も経産省も大衆も免責ということになってしまう。


完全な決定論的世界観のもとでは責任を問えない不確実な自然、前代未聞の事態の前で、自らの意志のおよぶ範囲を超えてつくられた因果に対しては、 全て人間の行為は許されてしまう。誰のせいでもない。強いて言うならば、時代が悪い。歴史が悪い。運命が悪い。因果関係を辿っていくと、究極的には世界の始まり、ビックバンにまで行き着く。だからあえていうなら、46億年前のビックバンのせい。無から有が生まれたせい。小林秀雄めいた、こんな思想はありだろうか。少なくとも社会は成立しなくなるだろう。だから法的責任、道義的責任、安全責任、戦争責任などの概念がつくられたのだと思う。便宜的に、権力は責任を負わせられた。権力は、職、金、武に宿る。それを法律や裁判、良心などが裁く。


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by healthykouta | 2014-06-22 12:15 | Comments(2)
Commented by 佐遠 at 2014-08-19 20:11 x
碁の問題に過ぎない。即ち、組み合わせに過ぎないと云うことだ。しかし、私達はそれを辿りきれない。だから、自由が存在する。又、我々は神ではない。だから、現象は分からない。誰が原発の事故を読みえたのだろうか。ここにも私たちが判断する自由がある。小林秀雄は必然論ではない。それらを十分知っている。だから、歴史的必然の恐ろしさを認識していた。小林秀雄はそれをどう受け止めるか、そこに人間の自由を見た。自分達に責任がないと考えたのではない。
Commented by healthykouta at 2014-08-21 07:05
非常に刺激的なコメントありがとうございます。
佐遠さんのおっしゃる「だから、自由が存在する」とは、

一局終えた後に、どの一手が勝負を決定づけたかを人間は知ることはできない(過去のすべての因果を辿りきることは出来ない)が、少なくとも「あの局面ではないか」と判断したり特定の解釈を下す自由がある。
人間には自由意志があると信じるか、ないと信じるかも自由に決めることができる。

という意味でしょうか。

懐疑心ゆえに私は、小林秀雄のように自由意志があるとは信じられません。確かな根拠がないのに、なぜ彼は自由意志の存在を確信したのか不思議です。釈迦の手の上の孫悟空のように、実は自分の意思はより大きなもの(運命、それまでの過去のすべての因果、遺伝子など)によって左右されているのではないかという可能性を信じる方に気持ちが傾いてしまいます。