社会科学で因果を認識するということ

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ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」岩波文庫 p55~p111、p215~268

1.本文要約
・アルヒーフの対象と、社会-経済なものの意味(そんなに大事ではないパート)
雑誌アルヒーフが扱ってきた「社会―経済的なもの」とは、われわれの生存や欲望の充足のために必要な資源が稀少であり、その制約下で行動を選択しなければならないという人間が直面している根本な条件に関するものである。そのうちでわれわれが知るに値する意義を認めたものが社会―経済現象となる。つまり人間社会から「問題」が抽出されるのは、観察者がそこに意義を見出して「問題化」するからである。観察者抜きに問題は存在しない。その現象は以下の3つに分けられる。①(銀行の生活過程のように)経済的側面に特に意義があるもの、②経済を制約するもの(例:プロテスタンティズムの倫理)③経済に影響・制約されるもの(例:ある時代の芸術的嗜好)。ある現象がこれらの複数の性質を兼ねることもあり得る。国家は財政に注目すれば①、立法に注目すれば②になる。

・一元論的認識批判
ウェーバーは、歴史的実在を因果で説明しようとする際に、なんでもかんでも一つの見方や法則に還元して説明しようとする一元論的傾向を批判する。今日でさえ、素人やニワカはどんな社会現象もある特定の見方(階級観、唯物史観、進化論、精神分析、ルサンチマン、人種優性論、利益集団論など)で説明できると信じ、しようと欲し、できた場合は満足する。だが、自己批判なきこの傾向は断固拒否すべきである。ある2つの異なる状況が、本来政治上、宗教上、風土上その他、経済的でない無数の決定要因の相違から説明されるべきところを、経済的要因に「こじつけ」て説明しようとするのは無理がある。説明できないものは、「科学上意義のない偶然」として無視されてしまうのも望ましくない。ある経済的要因がある結果をもたらした原因だと言いたいとき、それがどれほど妥当かを決める基準は結局、その現象がいかなる種類の原因に帰属されるべきかに対する価値判断である。その見方が具体的な歴史事象の因果帰属にとって価値ありと証明されるような連関の認識を提供してくれる程度に応じて、その見方は役に立つ。

・いかなる原理によって認識の対象は選び出されるか
いかなる文化事象も社会現象も、特定の一面的観点にしたがって初めて研究対象として選び出され、分析され、系統的に叙述される。その理由は、現実世界が無限に多様で存在するのに対して、人間はどう足掻いてもそのうちの一部分しか認識の対象にできないからである。それゆえ、有限な認識能力を持つ人間が(価値判断を経て)認識の対象にしたもののみが、「知るに値する」という意味で「本質的」なものと見ようという暗黙の前提がある。「知るに値する」のがなにかを決めてくれるものは、事物自体にはない。

・認識における法則的知識の役割と限界
ウェーバーは繰り返し、「特定の因果関係は、天体の運行のように法則に従っているかのように反復的に見出されるものであり、最終的にはその認識と法則の発見を通して、実在を演繹できるような学説体系を完成するべきだという立場」を批判する。そのような選び方では、個性的な歴史的実在を説明することができない。仮定上の法則を確定することは、われわれの追及する認識到達のための手段として役に立つが、それだけでは認識に至ることはできない。次には、その法則を用いてそのつど歴史的に与えられた個性的な事象を分析・秩序づけて理解させ、その事象をできるだけ過去に遡りそれを引き起こした諸原因の特徴について説明し、最後には未来にありえる事態を見定めることまでなしてやっと認識は十分なものになる。法則をどんなに追及・精緻化しても、「どうして貨幣交換が歴史的に、それが今日そなえているような基本的な意義を持つにいたったのか。それが成立しない世界にはならなかったのか」、「貨幣経済の文化的意義とは何か」という問いには答えられない(演繹的に導くこともできない)。

・主観的な文化意義と認識の手段の客観性
文化とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義を与えられた有限の一片であるが、主観的な価値判断・態度決定が、文化の意義に関する認識の背後にある。文化意義は歴史的にも変化する。このことから、文化科学的研究も、ある人には妥当し他の人には妥当しないという主観的結果しかもたらさないということにはならない。研究者は実在の認識に至るための手段の運用、すなわち(思考)実験を適切に行うことで、真理を欲するなんぴとにも妥当するような客観性と妥当性をそなえた科学的真理に近づくことができる(p100)。

・社会科学が、客観的に成立する法則の発見を至上命題とするようになった歴史的経緯
18世紀の(精密自然科学に類するものを作り出さねばならないという)自然法的な世界観が一因。この世界の実在を、理論的にも実践的にも合理化しきれると信じていた。近代の自然科学が、実在を客観的かつ合理的な法則体系として把握したがったことも一因。生物学やヘーゲル流の汎論理主義までがそうなると、およそ科学的研究の意味は、出来事の法則の発見にあると考えられるにいたった。この考えに基づく限り、個性的事象は法則の例示としての意義しかもてなかった。

<超重要>補論(p.237~256)
「ある特定の見方(階級観、唯物史観、進化論、精神分析、ルサンチマン、人種優性論、利益集団論など)はすべての実在に妥当な説明を与えることができる」という、自己批判なき一元論的信仰を克服するために、ウェーバーは「歴史的実在の個々の具体的な文化現象を、特定の観点の元に取り出された正確な観察素材の獲得によって、歴史的に与えられた具体的な原因へと確実に帰属させる可能性を拡大させる訓練が必要だ」という(p68~69)。これは具体的にはどういうことか、本書にウェーバーは何も書いていない。しかし補訳した折原によれば、本書の執筆後に取り掛かった「学問論集」にその答えがある。

その克服方法とは、実験または比較対照実験である。実験とは、yとx₁の因果関係を証明したいとき、x₂、x₃、x⁴・・・などのx₁以外の他の諸条件を人為的に一定に固定したうえで、x₁とyが随伴的な反応をみせるかどうか観察するというものだ。ただし、これを社会科学で思考実験として実践するのは大変な仕事で、厖大な世界宗教の経済倫理の比較研究を行ったウェーバーすら、存命中に「資本主義の精神y」を「禁欲的プロテスタンティズムの倫理x」に確実に因果帰属させることはできなかったという(p225)。

ただし、マイヤー論文では古代史家エドゥアルト・マイヤーの研究を紹介して、マイヤーの研究は「西欧文化における世俗的で自由な精神の展開y」の原因が、ギリシアがペルシャに勝利した「ペルシャ戦争x」にある、という因果関係を具体的かつ明晰に説明したとみなし、その論法を紹介している。すなわち、①征服者は、被征服民大衆を支配していく状況では、通例、大衆の野放図な反乱をおそれ、大衆自身の民族宗教を大衆馴致の手段として利用するという法則的知識と、②ペルシャ帝国はバビロン捕囚民、エルサレム帰還民、その他、夥しい征服の類例において、じっさい一貫してそうした政策をとったという史実的知識、さらに③ギリシャ側にも『密儀』や『神託』といった神政政治的で宗教的発展の素地があったという史実的知識と合わせて、「かりにギリシャがペルシャ戦争xで勝利を遂げていたら、ギリシャでも同じ大衆馴致政策をとったであろう。その場合は西欧文化における世俗的で自由な精神の展開yは実現しなかったであろう」という結論を客観的に可能かつ妥当なものとして提示することができる。以上のようにyとxの因果帰属がなされる。

本書の内容の発展

・小坂井(2013)から、ヒュームの因果関係の規範説について(p130~)
『そもそも因果関係は自然界に客観的に存在し、各社会・時代に生きる人間の認識から独立する関係でしょうか。AがBの原因だと言う時、(一)Aが生じれば必ずBが生じ、(二)Bが生ずる場合は必ずAが生じており、(三)時間的にAがBに先行するという三点を常識的には意味します。しかし、このような素朴な因果概念はすぐ難問にぶつかる。例えば、「ラッセル・テイラーのパラドクス」と呼ばれる議論があります。原因が結果に先行するなら、両者は同時に生起しない。したがって原因と結果の間には時間的間隙があるから、外的要因(筆者注:x₂、x₃など)の干渉によって結果の生起が妨害されうる。つまり原因が生じても結果が必ず生ずるとは限らない。ならば、それは結果と呼べなくなります。さらに言うと原因が結果に先行するならば、結果の生じる時点ですでに原因は消えている(筆者注:歴史的出来事は、結果が生ずる時点でも原因となる出来事・要因は持続しているということが普通にありえるのではないか?)から、先行する原因は真の意味での原因たりえない。

原因が結果に先行すると考えるために、このパラドクスが生ずるのだから、原因と結果は同時に生ずるとすればよいのか。しかし両者が同時に生起するなら、どんな結果についても、その原因が同時に存在するのだから時間は消滅し、あらゆる事物が同時に存在するという背理が帰結します(一ノ瀬2001、129頁)。

「因果の規範説」を提唱したスコットランドの哲学者ディビット・ヒュームは因果関係を自然界の客観的あり方としてではなく、人間の習慣や社会制度が作り出す感覚だと考えました。因果関係は当該の出来事に内在しない。複数の事象を結びつける外部観察者によって感知される社会現象ではないか。夜中に神社の境内で藁人形に針を打ち付けて憎い人間を呪い殺せると信じる文化においては、ヒュームによると、これがまさしく因果関係の客観的記述です。』

ウェーバーもおそらくこのヒュームの説に同意する。結局研究者が無数の要因のうちから意味づけをして取り出した有限な要因が、結果を説明する価値のある原因としてみなされずにすぎず、因果関係は自然界に客観的に存在し、各社会・時代に生きる人間の認識から独立することはないと言うだろう。ウェーバーは本書執筆前にヒュームのこの説を読んでいた可能性も高い。

・アーレントによる。社会科学へ統計学を因果帰属の手段として用いることへの批判
補論の通り、社会科学で思考実験によって客観的な妥当性をもった因果帰属の論をつくることは、言うが易いが行うは難しい。しかし統計学が発達した現代では、回帰分析などの手法を用いれば、確率的には因果関係の成立を示せるようになった。実際、計量経済学の分野では盛んにそのような研究が為されている。しかし「人間の条件」でアーレントは統計学を用いた経済学の研究を批判して以下のように述べた。

『統計学の法則が有効なのは、対象が多数あるいは長期の場合に限られており、「活動」(筆者注:社会で要求される画一的「行動」とは異なり、自分を他と区別するユニークで積極的な偉業や生活のこと)の結果や出来事は、統計学的に見ると、ただ逸脱あるいは偏差としてしか現われない。統計学が存在するのは、偉業や出来事が日常生活や歴史の中ではまれにしか起こらないからである。それにもかかわらず、日常的な関係の有意味性が顕になるのは、日常生活においてではなく、まれな偉業の中においてである。したがって、歴史的時代の意味も、それが示されるのは、その時代を明るみに出すわずかな出来事においてのみである。だから、対象が多数であり、しかも長期にわたるものを対象とする法則を、政治や歴史に適用することは、政治や歴史の主題(筆者注:意味)そのものを意図的に抹殺すること以外、何事も意味しない。日常的な行動や自動的な傾向以外は、すべて価値のないものとして取り除かれているのに、政治に意味を求め、歴史に重要性を発見しようとしても、うまくゆくはずはない。(66頁)』

つまりアーレントによれば、統計学は、「昔と同じように人間は振る舞うことを繰りかえす」という前提に基づいて、法則的に観察される既定路線的出来事の因果帰属を帰納的に確定させることは可能だが、まれにしかおこらない、従来とは異なる非連続的な変化を因果帰属させることはできない。そういった出来事は統計学では「逸脱」や「偏差」として扱われてしまうからだ。しかしそのまれにしか起こらない非連続的変化をもたらす出来事こそ、人類の歴史上重要な意味を持つのだとアーレントは指摘する。
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by healthykouta | 2015-09-02 12:42 | 読書 | Comments(0)