死を待つ人の家の思ひ出

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マザー・テレサが亡くなってから18年後の3月、私はカルカッタにある「死を待つ人の家」にいた。彼女に関する、ある素朴な疑問を解くためだった。マザー・テレサは、貧しいインド人たちに対して善行を施したことで知られているが、それは余計なお世話ではなかったのか?というものだ。


インド人独特の「輪廻」に基づく死生観は、前世の業(カルマ)が現世の生を決定するという。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。 天国での永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた。これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。(wikipediaから中村元『原始仏教:その思想と生活』日本放送出版協会〈NHKブックス〉2007年 の孫引き)』


この思想に基づくと、「現世で不遇な生を送る人間の原因は、前世で何か悪いことをしたことにある。よってそれは自業自得であり、他人は手を差し伸べるべきではない」という考えが導けるのではないか。ヴァラナシからカルカッタに向かう電車のプラットホームで、行き倒れになっているお婆さんをみた。その光景自体が衝撃的だったが、もっと衝撃的だったのは、そのお婆さんがまるで存在しないかのように、傍を通りすぎていくインド人たちだった。電車が来るまではまだだいぶ時間があるのに、なぜ誰も彼女を助けようとしないのか?赤の他人に無関心なのはなぜか。あのお婆さんが前世で何か悪いことをしたから、その報いを今受けているのだ、とインド人は考えているのだろうか。輪廻を前提にすると、今の生が終わったところで、また生まれ変わって次の生が始まるという流れを繰り返すだけだから、死は終わりではない。ゆえに輪廻の流れに手を加える必要はないと考えていたのだろうか。その後電車の中で知り合ったアメリカの大学で経済学を学んでいるという若いインド人に質問すると、今のインド人は自分が豊かになることで精いっぱいで、他人に優しさを施す余裕がないからだ、と言っていたが。。。


インドに行ったことがない人にも、マザー・テレサが何をした人なのかはよく知られている。

“スラムを歩いていたマザーは、道端に転がっている者に気づきます。近づくと、それは行き倒れになった女性でした。 わずかに女性の指が動きました。「まだ生きている。」死にかけた人が道端に放置されていることにマザーは驚きます。 すぐに、マザーは女性を病院に運びます。しかし、病院の医師は女性を見て言いました。「だめだ、こんな人間はコルカタに何百人もいる。」マザーは諦めずその場から動きません。 医師はマザーに根負けし、女性は無事病院に引き受けられました。しかし、マザーの心には医師の言葉が突き刺さっていました。「そんな人間は何百人もいる。」道端で人が死ぬことが当然とされる社会と人々の心。最も貧しい人たち。その存在にマザーは気づきます。ただ、物質的な貧しさだけでなく、誰からも愛されず見捨てられた人。この人たちこそ自分が救わねばならない。


早速、マザーは行動に移します。 市役所を訪ね、路上で死にかけている人々を見取る場所を提供して欲しいと訴えました。 マザーの熱意に動かされた役人は、ある場所を紹介してくれます。それは、コルカタのヒンドゥー教の聖地、カリー寺院でした。 その休憩所を、使われていないからという理由で貸してくれたのです。早速、マザーたちは路上で行き倒れている人々を引き取り介抱します。衰弱が激しく、自分で食べることの出来ない人の口に食べ物を運びます。 そして、助かる見込みが無くても薬を与え、出来る限りの治療を施しました。後にマザーは語っています。「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後は大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。 彼らが、それまで味わえなかった愛を最上の形で与えたい。」施設の名は、『死を待つ人々の家』。誰からも見捨てられた人たちが、人間として尊厳ある最後をむかえる場所です。(http://waratte.nosmilenolife.jp/edn/edn081220.html)


マザー・テレサは、「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後は大切にされ、 愛されていると感じながら亡くなってほしい。彼らが、それまで味わえなかった愛を最上の形で与えたい」という思いから、死を待つ人の家を用意し、当時今よりもっと沢山いた生き倒れになっている人を収容し、死ぬまで世話をした。彼女の行為は、キリスト教の教えに基づいていた。そしてその献身は、世界中で多くの人の心を動かした。日本にいたころ、東京の主要な駅でホームレスを見ても、声をかけることもできなかった自分とは天と地以上の差があった。

 

たった1日だけだったが、死を待つ人の家でボランティアをした。そこで私が担当になったのは、お腹に末期ガンがあり、寝たきりになっている、もう骨と皮だけの、骸骨のようなインド人だった。名前はわからず、ただベットの上に「20」という番号が書いてあるだけだった。私の仕事は、部屋の掃除や、彼の身体に軟膏を塗り、食事の時間に彼が食べるのを手伝うことだった。私はヒンディー語はもともとわからなかったが、彼もそれを知っているのか話す気力もないのか、言葉を発する代わりに身振りで指示をした。


彼は食べようとしなかった。もう自分は助からないことを悟り、食べないことで死のうとしているのだ、と思った。私はそれでも無理やり彼に食べさせるべきなのか迷った。それをやることがまさに仕事だったのだが、彼が自分の命を思い通りに終え、病の苦しみから解放する権利があるのではないかと思ったからだ。結局私は本人の意思を尊重して、無理やり食べさせようとはせず、彼の指示するままに、ベットの下に皿を置いた。しかしシスターに相談すると、「彼はいつもああだから」と言って、むりやり彼の口に食べ物を流し込んだ。彼はむせかけながらカレーを飲み込まされた。マザーハウスに来たばかりで「ここのやり方」を知らぬ身としては、それが正しいことなのかどうか、そのとき私はシスターに問うことが出来なかった。


既に3週間ボランティアしていて、今日が最終日だというフランス人は、彼が食べようとしないのは死にたがっているからではなく、単に食べ物が美味しくないからだと考え、明日彼のために市場でバナナを買ってくると笑顔で言っていた(注:本来施設で提供されるモノ以外の食事を与えることは禁じられているが、ボランティアを一定期間続けた者は、最後に一つそのルールを破ることができるという。本来禁じられているが、施設内の写真を撮ることもできるという。彼はその権利を、バナナを買うことに使おうとしていた)。私はあげないほうがいいのでは?彼もそれは望んでいないのではないか?とは言えなかった。


物心がついたばかりの子供が世の中に絶望して死を望むことはある。そういうとき、間違いなく親や学校の先生は止めるだろう。子供は後になれば、あれが一時的な気の迷いだったと悟るかもしれない。だが、あのNo.20のケースはどうなのだろうか。彼は無理やり食べさせられている間、「愛されている」と感じられただろうか。明らかに「死を待つ人の家」では、もう手がつけられなくなるまでは積極的に延命させることを方針としていた。「死を待つ」という看板に偽りはなかった。彼のように末期の病気ではない、別の元気な患者たちは、自分が路上で発見・収容された当時の自分の写真を見て、治療を施された今の自分と比べて、「これが俺だぜ(今とは別人だろ?)」という感じで笑い合っていた。本人も嬉しそうだった。


マザー・テレサは、人道的観点からはとてもいいことをしているように思えるが、「死の待ち方」に関する考えが異なる他者への行為の面で、難問が浮き彫りになっていた。

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by healthykouta | 2016-06-14 13:29 | 幸福論 | Comments(0)