個体観の変化による死生観の変化

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あっさりパタパタ死んでしまうニワトリのヒナたちを見てから、自分の死生観を変えてくれる考えをずっと探していた。一個体の死にいちいち心を乱されたくなかったのだ。かといって既存の宗教の教義は、どれもうさんくさくて信じられなかった。人間が極楽浄土(天国)に行けるとして、ニワトリは?細菌たちは?いろいろ本を読んだ結果、ダーウィン以降の生物学が私を救ってくれた。自然淘汰と突然変異だけでは依然として弱肉強食観から抜け出すことができなかったが、淘汰の単位を個体ではなく遺伝子とみるべきだという仮説を立てたドーキンス、ウイルスは遺伝子をかきまぜる役割を果たしていると教えてくれた中屋敷さんの「ウイルスは生きている」、この2冊によってそれはかなえられた。

生き物の単位である「個体」を一人(一匹)とみなすのが間違っていたのだ。その定義での個体は必ず死ぬ。ただ、遺伝子は、古来から現在、そしてこれからも乗り物である個体を次々に乗り換えていく。千年パズルが宿主を変えていくがごとく。従来の意味での「個体」の中には繁殖・複製できずに死んでいくものがある。ああ哀れ。従来そのような個体は子孫を残せないということで同情の対象だった。しかし彼らも死後は微生物に分解されて、ミミズに食べられて、植物に吸収されて、とにかくなんらかの経路で、その個体だったものは別の生き物の遺伝子にとりこまれて永続している。消えてなくなる遺伝子もあるが、そもそも世界はひとつの遺伝子が自己を複製するところから始まったのだ。ミクロの世界の観察は人間にこの仮説を示した。

この世界を、自己複製能力を持った遺伝子が、様々な形の容れ物に入ってひしめきあっているという風に眺めると、がらりと見え方は変わる。従来の個体観(①物理的に一つながりとなっている。②それを構成する細胞が同一のDNA情報を持っている(自己増殖の単位)。③一つの中枢神経系(脳情報)により全体が統合されている。)は人間の脳が見せる錯覚だ。「自己細胞のDNA情報を後代に引き渡す」ことが生き物の「肝心」であって、人間としての生は「特殊」である。だから弱肉強食という世界観も錯覚である。ただ遺伝子を乗せた生き物同士が「闘っている」ように見えるのは事実。ウイルスと動植物は侵入・変異・撃退を繰り返している。だがそれも遺伝子同士のせめぎ合いに過ぎない。生物を攻撃しているように見えるウイルスは、実は遺伝子をかきまぜる役割を果たしているだけなのだ。

この考えは私にとってコペルニクス的転回であった。これを知ると、従来の死生観を強化するような本はすべて不要に感じられた。既存の宗教も(ただ仏教の輪廻というアイデアは遺伝子の挙動とも親和性がある)。ドーキンスが「神は妄想である」と言いたくなる気持ちもわかる。まあ神は「ヒト」ではなく「人間」の脳の産物。「人間」は整合性のとれた世界観を必要とした結果、ついには自ら神という概念と諸物語を作り出しただけなんだけどね。「人間」として生きるわれわれは、いつしか「ヒト」であることを忘れた。「ヒト」であることを否定するかのごとく、避妊具を発明し、脳の報酬系を刺激することに熱中しだした。子孫を残さず、生涯独身で通す者も出てきた。これには遺伝子さんも苦笑い。脳が自らを個体の主人であると錯覚してしまった。本当は遺伝子なのに。だが人間として生きるか、ヒトとして生きるかを私たちは選べる。他のあらゆる動植物と異なり、人間のみが自らの生に意味づけをする力を持っているようである。生物の「本流」としての遺伝子のめくるめく旅に乗るも乗らぬも自由。

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by healthykouta | 2017-01-29 20:18 | 読書 | Comments(0)