着ることと選ぶこと

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「海月姫」 16巻、百貨店にて


「私選べないです この中からどの店を選んで その中でまたどの服を選べばいいか 見当もつかないんです」

「インスピレーションがない人は どうやって服を選んで買えばいいんでしょうか だって3万円もするこんな高いもの 適当な理由じゃ買えませんよね お金持ちならともかく・・・ でも普通の人はみんな必死で働いて・・・・・・・その大事なお金でお給料やバイト代でお洋服を買うんだから・・・・だとすれば みんなどうやって服を選んでるんでしょうか」


選択肢が多すぎてどの服を選んだらいいかわからない、というジジの悩みはすごく共感した。資本主義が発達して、売り場に並ぶ服の種類は無限に感じられるほど多い。でも自分に何が似合うのかわからない。だから服には求めるものはもっぱら、安さと快適さ(機能性)。デザインは目立たないもの、なんとなく“無難”なものを選んでしまう。


制服・スーツ・着物・民族衣装は決まり切った“型”があるから楽だ。それを着る際にほとんど色・模様・形・上下の組み合わせを選択する自由がないからだ。他人に選んでもらえるのは楽ちんだ。自由意志による選択の余地がないと楽、これはなぜだろうか。選んだものには責任が生じるからだ。服は見られるものだから、どうしても他人の目を意識する。そして「似合う」かどうかを判定するのは自分ではなく他人なのだ。無難というスローガンはそこからくる。何を着ても「似合う」ような恵まれた身体の持ち主ならば、何を着ても他人から褒められ承認が得られやすいから、着る服を自信を持って選択することもしやすくなるだろう。しかし普通の人にとっては、目立つ服を着ることはリスキーな選択だ。自分が選んだ服の組み合わせを他人から否定されたら一大事である。だから無難がモットーになる。私みたいな消費者が増えてしまったら、アパレル業界は大変だろう。


選択の自由は資本主義が尊いとしてきた理想だ。しかし財布という制約はあれど、無限に広がる自由の前に私は“最善”の選択ができなくなる。 この中から一番自分に似合うものを選べる気がしない。そうなると、強制された結果ではないのに、無限の自由の前で自発的に無難を選んでしまう。これいいかも、誰がなんと言おうがこのデザインはいい!という気持ちと、見苦しくなく思われたい、なんなら美しくステキに見られたい、という欲望は一致しない。自分らしい格好、というものには“正解”が(見本が)ない。


単なる服選びは、生き方にも通じる気がする。着たい衣服がわからないというのは、生きたい道がわからない、他人の評価を気にせずにはいられないというのに似ている。自分の感性に徹底的にこだわって、お金を大胆に使って、選ぶような生き方ができるような人は魅力的だ。みんなはどうやって服を選んでいるのだろうか。おそらく多くの人は「“モデル”が着ている者がほしい」、「あの人みたいになりたい」、という風にまず模倣から入るのではないだろうか(モデルという言葉はまさに模範・手本を意味する。)


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by healthykouta | 2017-05-06 21:00 | Comments(0)