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ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」は感動的な歴史研究です。

通読する時間がない人にも、どうしても知ってほしい記述を2か所引用します。


①下巻p379

『このあと(1951年のサンフランシスコ平和条約の翌年:筆者補足)間もなく実施された世論調査では、「日本が独立国家になったか」との問いに「はい」と答えた者は41%しかいなかった。

ここにあるのは、ひとつの分裂した国であった。沖縄は文字通り分離されていたし、日本が世界のなかでどんな位置を占めるのかという問題についても、日本人は感情的に引き裂かれ不安な状態にあった。しかし、日本人がもっとも分裂したのは、政治に関する考え方の面であった。のちに、吉田茂はこの点を説明するのに分割された朝鮮半島のイメージを借りて、「占領は、日本人の心に38度線を走らせた」と述べた。吉田の言葉は、リベラル派や左翼の立場にたつ反政府勢力の登場をさしていた。この反政府勢力は、占領が元来めざした「非軍事化と民主化」の理想をひきつづき追求すべきだと主張し、日本がパックス・アメリカーナに編入されることに反対し、アメリカが保護している保守政治家・官尞・大企業経営者の権力配置に対して、仮借ない批判的態度をとっていた。多くの著名な知識人がそうであったし、マス・メディアの多くも、組織労働者の中に根強い力を保っていた左翼勢力も、こうした批判的な立場をとった。当時、戦闘性を増していた共産党を支持した人々も同様であった。』


占領軍が当初目指していた人類の理想ともいうべき非軍事化と民主化の理想は、戦後統治に天皇制が必要だという考えと、共産主義陣営との冷戦において占領軍が方針転換(逆コース)したことで徹底されなかった。天皇の戦争責任を問わず、過剰に検閲を行い表現の自由を奪い、朝鮮戦争に際しては警察予備隊を創設し、占領軍が官僚組織の模範として振る舞い、日本の官僚組織を強化したこと(p390~391)などで。


しかしその理想を支持し続けた日本人が、今もいるということ。戦争を経験していない戦後世代にもその思想が受け継がれているということ。この起源は占領時代にあった。占領がこんなにも長く、70年後の日本社会をも縛るものなのかと感心した。これまで読んできた日本人が書いた本には、「占領軍が19451951年に行ったことが、日本社会にどのような影響を残したか」について述べたものがあまりなかったため、大変新鮮だった。


②下巻p394

『(戦争と敗戦を自ら体験した:筆者補足)この世代のエリートたちは、後継者たちにひとつの未解決の問いを残したということである。――日本はどうすれば、他国に残虐な破壊をもたらす能力を独力で持つことなく、世界の国々や世界の人々からまじめに言い分を聞いてもらえる国になるのか?この問いこそ、「憲法9条」が残し、「分離講和」が残し、「日米安保条約」が残したものである。(中略)憲法9条の精神に忠誠を誓えば、国際的嘲笑を招く。――それは1991年の湾岸戦争で、イラク攻撃のために日本が実戦部隊を派遣せず資金だけを提供した時、あざけりを受けた心痛む経験によって明らかになった。他方、憲法9条を放棄すれば、日本は過去の敗北を取り消そうとしているという激しい抗議を招くことは疑いの余地がない。』


孫埼亨氏の「戦後史の正体」は、占領中から独立回復後、歴代の外交官や首相が対米従属と自立路線の間で絶えず試行錯誤してきたことを示している。逆コースの中、政界に復活を果たした日本の旧保守勢力を代表する岸信介。その孫である安倍晋三は「新しい国へ(美しい国へ 完全版)」でこの点を引用し、自衛隊を海外へ派遣する必要性を述べている。


『湾岸戦争が終わって、クウェート政府が「ワシントンポスト」紙に掲載した「アメリカと世界の国々ありがとう」と題した感謝の全面広告の中には、残念ながら日本の名前はなかった。このとき日本は、国際社会では、人的貢献ぬきにしては、とても評価などされないのだ、という現実を思い知ったのである。(p140)』


もちろん上の問いは憲法改正の是非にも関わる。アメリカの核の傘の下に入り、集団的自衛権を行使できるようにして日米関係を強化することで、行使しなくても軍事力を抑止力として持たなければ、自国の安全・平和は確保できないと考える人たちがいる。それが国際政治のリアル(≒普通の国)だと。


他方でそれはアメリカに従属することに他ならない、日本は敗戦の経験を生かし、理想的な平和憲法の理念にのっとって、軍事力なしに独自の道を進むべきだと夢見る人たちもいる。藤原正彦は「国家の品格」で、国家の品格はそれ自体が防衛力であり、日本が昔から持っていた卑怯を憎む心、惻隠の情、美的感受性、望郷の心、自然との調和、武士道精神などをもち、欧米をはじめとした、未だ啓かれていない人々に発信すれば、戦争を阻止する有力な手立てになると主張している。


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by healthykouta | 2017-06-09 09:47 | Comments(0)

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「海月姫」 16巻、百貨店にて


「私選べないです この中からどの店を選んで その中でまたどの服を選べばいいか 見当もつかないんです」

「インスピレーションがない人は どうやって服を選んで買えばいいんでしょうか だって3万円もするこんな高いもの 適当な理由じゃ買えませんよね お金持ちならともかく・・・ でも普通の人はみんな必死で働いて・・・・・・・その大事なお金でお給料やバイト代でお洋服を買うんだから・・・・だとすれば みんなどうやって服を選んでるんでしょうか」


選択肢が多すぎてどの服を選んだらいいかわからない、というジジの悩みはすごく共感した。資本主義が発達して、売り場に並ぶ服の種類は無限に感じられるほど多い。でも自分に何が似合うのかわからない。だから服には求めるものはもっぱら、安さと快適さ(機能性)。デザインは目立たないもの、なんとなく“無難”なものを選んでしまう。


制服・スーツ・着物・民族衣装は決まり切った“型”があるから楽だ。それを着る際にほとんど色・模様・形・上下の組み合わせを選択する自由がないからだ。他人に選んでもらえるのは楽ちんだ。自由意志による選択の余地がないと楽、これはなぜだろうか。選んだものには責任が生じるからだ。服は見られるものだから、どうしても他人の目を意識する。そして「似合う」かどうかを判定するのは自分ではなく他人なのだ。無難というスローガンはそこからくる。何を着ても「似合う」ような恵まれた身体の持ち主ならば、何を着ても他人から褒められ承認が得られやすいから、着る服を自信を持って選択することもしやすくなるだろう。しかし普通の人にとっては、目立つ服を着ることはリスキーな選択だ。自分が選んだ服の組み合わせを他人から否定されたら一大事である。だから無難がモットーになる。私みたいな消費者が増えてしまったら、アパレル業界は大変だろう。


選択の自由は資本主義が尊いとしてきた理想だ。しかし財布という制約はあれど、無限に広がる自由の前に私は“最善”の選択ができなくなる。 この中から一番自分に似合うものを選べる気がしない。そうなると、強制された結果ではないのに、無限の自由の前で自発的に無難を選んでしまう。これいいかも、誰がなんと言おうがこのデザインはいい!という気持ちと、見苦しくなく思われたい、なんなら美しくステキに見られたい、という欲望は一致しない。自分らしい格好、というものには“正解”が(見本が)ない。


単なる服選びは、生き方にも通じる気がする。着たい衣服がわからないというのは、生きたい道がわからない、他人の評価を気にせずにはいられないというのに似ている。自分の感性に徹底的にこだわって、お金を大胆に使って、選ぶような生き方ができるような人は魅力的だ。みんなはどうやって服を選んでいるのだろうか。おそらく多くの人は「“モデル”が着ている者がほしい」、「あの人みたいになりたい」、という風にまず模倣から入るのではないだろうか(モデルという言葉はまさに模範・手本を意味する。)


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by healthykouta | 2017-05-06 21:00 | Comments(0)
(全部引用・お気に入り編)

①市民ボナパルト(ジョセフィーヌ)へ

ニース、共和暦第4年芽月10日(1796年3月31日)

私は1日たりとも君を愛さずに過ごしたことはない。一晩たりとも君を腕に抱きしめずに過ごしたことはない。一杯のお茶でさえも、いとしい君から私を遠ざけている栄光と野心とを呪わずに飲んだことはない。いろんな用務のただ中にあっても、部隊の先頭に立っていても、営地を駆け回っていても、熱愛するジョセフィーヌだけが私の心にあり、私の頭を占め、私の思いを奪っているのだよ。ローヌ河の激流のような速さで私が君から遠ざかるのも、君との再会を急ぐためなのだよ。夜中に起きて仕事をするのも、やさしい君の到着を数日早めることができるかもしれないと思ってのことなのだ。

それだのに、風月23日付と26日付の手紙では、君は私をよそよそしくもvousと呼んでいる。ほかならぬ君が私をvousと呼ぶだなんて!ああ!いけない女よ!どうしてあんな手紙が書けたのだろう!あの手紙はなんて冷たいのだろう!・・・ああ!2週間後にはどのようなことになるのだろう?・・・私の魂はさびしい、私の心は恋の奴になっている。おして私の想像は私をおびやかす。・・・いつか、君は私をもはや愛さなくなるのだろう、それならそうといってくれ、私はせめて不幸に値するだけの人間にはなれると思うのだ。・・・

私にやさしい愛情を覚えさせて私を「自然」へ赴かせるかと思うと、雷のようにとどろく激しい衝動を覚えさせる妻よ――私の愛する、私の恐れる妻よ、苦痛よ、幸福よ、希望よ、私のいのちの原動力よ、さようなら。私は君に永遠の愛を求めるのではなく、貞節を求めるのでもない、ただ・・・本当のことを、限りない率直さを、求めるにすぎないのだ。君が、「わたくしはあなたを以前ほど愛していないのよ」という日は、私の愛の最後の日であるか、私の生涯の最後の日であるだろう。報われなければ愛せないほど私の心がさもしいものであったら、私は私の心をこの歯で切断するだろう。ジョセフィーヌ!ジョセフィーヌ!私が時々君に言ったことを思い出しておくれ、私は強い果断な魂を恵まれているのだ。ところが君はレースと薄絹とで出来ているのだ。君は私を愛してくれなくなったのか?・・・

②ジョセフィーヌへ

ケル―ブレ、花月10日(1796年4月26日)

私の幸福は君が幸福であることだ、私の喜びは君が陽気であるということだ、私の楽しみは君が楽しみを持っているということだ。これ以上の献身と、情熱と、愛情とをもって愛された女はかつていなかった。一人の人間の心をこれ以上完全に支配して、その人のすべての趣味と好みを左右し、その人のすべての望みの根源となることは決してできることではない。私はこのように君にくびったけだが、君の方はそうではないというのなら、私は私の盲目ぶりを嘆き、君に良心の呵責をおぼえてほしいばかりだ。そして私は苦痛のために死にはしないとしても、これからさきは生涯にわたって傷つけられて、私の心はもはや喜びや楽しさの感情に向かって開くことはないだろう。私の生活は単なる肉体的なものにすぎなくなるだろう。君の愛、君の心、君という素晴らしい者を失っては、生活を愛すべきものいとおしいものにしてくれる一切のものを失ったことになるからだ。

私のいのちである妻よ、どうして私がさびしがらずにいられよう?君からの手紙はこない、君が私を愛してくれていたら、日に2度は手紙を書いてくれただろうに。しかし君は早くも朝の10時から、気障な訪問客たちとおしゃべりをし、それから無数の青二才どものくだらない話や馬鹿げた話を夜中過ぎの1時まで聴かなくてはならないのだね。風儀の正しい国々では、早くも晩の10時には、だれでも自分の部屋に引き取っているものだ。そして、そうした国々では、妻たる者は夫に手紙を書き、夫のことを思い、夫のために生きているものだ。さようなら、ジョセフィーヌ、君は私にとっては説明のできない化物だよ・・・私の君に対する愛は日に日に募るばかりだ。不在は小さな情熱を癒し、大きな情熱を募らせるものなのだよ。君の口の上に、或いは君の心臓の上に、接吻を送る。私のほかには誰もいないだろうね?それから、君の乳房の上にも口づけを。ミュラは何という幸福者だろう・・・・可愛い手よ・・・ああ!君が来ないのなら!!!

③同じくジョセフィーヌへ

ヴェローナ、共和暦第5年霜月3日(1796年11月13日)

私はもはや君を全く愛しない、それどころか、君を憎む。君は卑しく、いかにも不器用で、いかにも馬鹿で、いかにも汚らしい。君は一向に手紙をくれない、君は夫を愛していない、君は君の手紙が夫を喜ばせることを知っているくせに、殴り書きのわずかな6行からなる手紙さえ出そうとはしないのだね!

奥さん、あなたはいったい、1日中何をなさっているのですか?どんな重要な要件があればとてあなたのお人よしの夫に手紙を書く暇もないのですか?あなたが夫に約束した愛、あのやさしい変わらない愛を窒息させ、のけものにしているどんな愛情なのですか?あなたの時間を独占しあなたの日々を思うままに動かして、夫のことにかかずらう暇をあなたに与えないその素敵な、新しい愛人はいったい誰なのですか?ジョセフィーヌさん、気をつけられるがよい、一夜、戸を蹴破って、私が闖入するかも知れませんよ。

妻よ、私は実際、君の便りがないので心配しているのだよ。早く4ページばかりの手紙を書いて、私の心を愛情と喜びとで満たしてくれるあの愛らしいことどもをいっておくれ。近く、君をこの腕に抱きしめて、赤道直下のような燃える接吻を浴びせることができると思う。

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by healthykouta | 2017-04-21 11:33 | Comments(0)

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他称理想主義者「雄弁術(自分の主張を相手に説得する技術)は嫌いだ。あらかじめ用意された結論に導かれるのは気に入らない。議論の勝ちに拘って、妥協することは最初から選択肢になく、自説の正しさを疑わず相手に押しつける姿勢が不愉快だ。大声出して怒っているように振る舞うことで、相手を支配しようとするのも嫌いだ。それを話し合いとは呼べない。交渉が雄弁術の応酬に堕ちるのを何度も見てきた。

雄弁術の対極には、弁証法(問答法、ギリシャ語でダイアローグ)がある。不完全な人間は、一人だけでは真理にはなかなか至れない。相手が間違っていると思っていても、自分も真理に至っている保証はない。相手の議論を最後まで聞き、そこに内在する矛盾を指摘し、疑問を投げかけて落ち着いて対話する。そうすれば、お互い自分たちの矛盾に気づいて、内発的に考えを改める。相手から疑問を投げかけられたら、同じように応答する。そうやって相互に発展して、真理に至ればよい。プラトンの本の中のソクラテスほど徹底的に弁証法を行うのは難しいけど、少しでもあれに近づけた方が雄弁術よりはいいと思う。」



自称現実主義者「綺麗事言ってんじゃねえ。交渉の目的が「自分たちの利益の最大化(自分たちの正しい言い分を相手に理解させ認めさせること)」であって、「交渉の結果はどうなってもよいから(片方の主張の棄却であれ、双方の妥協であれ)とにかく建設的な話し合いをすること」ではないのから仕方ない。宇井純(196877)は、水俣病の被害者は、乱入、乱闘という段階を経て大騒ぎしないと、国やチッソから有利な妥結条件を引き出せなかったと指摘している。彼の考えが常に成り立つとしたら、交渉では早々に妥協するよりとにかくゴネた方が最終的に自分たちの言い分が認められやすく得だということになる。交渉において争っているのは「真理」の在り処ではない。双方の「利害」を調整しているだけに過ぎない。」



他称理想主義者「交渉に臨む双方がそれぞれ異なる考えに基づいて「自分たちの利益だけを最大化」しようとしていたら、交渉は不毛な平行線に終始するだろう。ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の話を思い出してほしい。お互いが得をするような戦略があり得ると思うんだ。そのゼロサムゲームを超えた状態は、交渉前に自分らだけで考えたアイデアをベストだと信じてその実現に固執するのではなく、双方での建設的な話し合いを通してはじめて発見し得ると思うんだ。私はそれを“交渉における真理”と定義したい。信頼関係がないから対話ができないと言うのなら、まず対話の成立を通して信頼関係を育めばよいではないか。」


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by healthykouta | 2017-04-21 11:02 | Comments(0)

ぼく「鶏は馬鹿だ。鳥なのに飛んで逃げる力を失ってしまった。翼が手になることもないみたいだし。」

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鶏♂「結構!(馬鹿はお前だ。これは環境への適応なのだよ。人間の家畜となることで、労せずして餌にありつけ、外敵からも身を守られて、わが種は大繁栄よ。飛ぶ力をキープするためにはなあ、体重をうんと軽く維持しなけりゃならねえんだ。人間様の世界の言葉でいうダイエットってやつだな。他の鳥達は飛べる代わりに一日中ひっきりなしに虫などを探し回り、小腹を満たし続けなければならない。スズメやセキレイを見てみな。あんな風にせかせかした生を送るなんてオレたちゃごめんだね。羽は意外とあったかいんだぜ。保温効果ばっちりよ。それに我々にとってはクチバシが手の代わりみたいなものだ。)」

ぼく「鶏は馬鹿だ。家畜になったために人間の都合で寿命いっぱい生きられず、オスは肉が柔らかい頃、メスは卵が産めなくなったら食べられてしまう。」

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雛(性別不詳)「ピヨピヨ!(愚かなる人間よ。これは生存戦略なのだよ。なぜ一個体が寿命いっぱい生きる必要があるのかね?異なる種の幸福観に付き合わされる身にもなってほしいね。我々は種として持続すればいいのよ。人間様の世界の言葉でいうチクサンギョウとかいうやつに従っている限り、我々の出生率と個体数は膨大なのである。身動きできない小屋の中で育てられるのはたまらないけどな.

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烏骨鶏♀「人間は馬鹿よ。なんで隠れてあんなに長時間交尾をするの?理解できない。なんで一夫一妻制なの?なんで排卵期以外にも交尾をするの?なんで殻付き卵を産まないの?なぜ嫉妬という感情があるの?なんで殺し合うの?なぜ一個体の死を嘆くの?なんでそんなに体毛がちょっとしかないの?なんで独り立ちできるようになるまでにそんなにモラトリアムが長いの?なんであなたの種の価値観で私たちを評価しようとするの?脳ミソが無駄にデカイ生き物の考えることはつくづくわからない。(滑稽だわ!)」

ぼく「鳥がしゃべった!!!」


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by healthykouta | 2016-12-19 11:39 | Comments(0)
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おととい、たまたま鴨川近くの通りで、上御霊(かみごりょう)神社のお祭り(御霊祭り)に遭遇した。白いはっぴを着た男たちがみこしを担いて、「えらやっちゃ!えらやっちゃ!」 という掛声を繰り返しながら神輿を上下に振り、神輿の上に付いた大きな鈴を鳴らしていた。日本人は神社で鈴を鳴らしてから祈る習慣を持っているが、どのような歴史的経緯・理由でそのような所作になったのだろうか?

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神社本庁のHPによると、『社頭に設けられた鈴は、その清々しい音色で参拝者を敬虔な気持ちにするとともに参拝者を祓い清め、神霊の発動を願うものと考えられています。』とある。(http://www.jinjahoncho.or.jp/iroha/omairiiroha/suzu/)

神社オンラインネットワーク連盟によると、『一説によると、古来から鈴には魔除の霊力があるとされ、それが転じて、神事のときに鈴を鳴らすようになったようです。 巫女(みこ)が神楽舞(かぐらまい)を舞うときに、手にもって鳴らす神楽鈴(小さな鈴を山型に並べた鈴)、その音には神さまをお招きする役割があったそうです。 つまり、神前で鳴らす鈴も、この神楽鈴に由来するとされ、神さまを拝礼するにあたり、鈴のその清らかな音色で神さまをお招きし、これから祈願を申し上げるという、一種の合図のような役割を果たしているのです。 』(http://jinja.jp/modules/chishiki/index.php?content_id=109)

まとめると、鈴には、
・古来から魔除の霊力があり、
・参拝者を敬虔な気持ちにさせ、
・神さまをお招きする役割があるという。

でも、なぜ鈴には魔除けの霊力が宿ると昔の日本人は考えたのか?については情報がない。いまから5日前の出来事に、この問いに答えを得るヒントがあった。5月15日には、京都・三大祭りのひとつ、葵祭(賀茂祭)が執り行われていた。

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葵祭の起源は、今から約1400年前の欽明天皇(在位539~571、筆者補足:百済から仏教が伝わったときの天皇)の頃に、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)を勅使として、4月の中酉の日に祭礼を行い、馬にはをかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったことだという。(引用元:https://www.kyokanko.or.jp/aoi/enkaku.html)

つまり、たまたま当時、卜部伊吉若日子 (うらべのいきわかひこ)という人間が鈴を馬にかけて振ったら、それまで苦しめられていた災害がピタッと収まったから、その後も鈴に不思議な力があると信じられていったのではないだろうか。いいかえると、この偶然経験された成功体験が、きっとその後も鈴が信仰されることになった本当の理由だと思う。だとすると、もし卜部伊吉若日子 が馬に鈴ではなくコマネチをしていたら、現代日本では参拝者は鈴を鳴らす代わりに神前でコマネチをしていたかもしれない。よかった。ドラえもんでもこういう話があった気がする。

わたしたちは、ルーツを知らずに、単に他人の模倣から行っている習慣をもつ。神社で鈴を鳴らしたり、祇園神社・下賀茂神社が有名だから、「世界遺産だから」行ったりする。しかし、なぜそれを鳴らすのか?それにどんな意味があるのか?なんでこの場所は有名なのか?という素朴な質問さえ発すれば、今やネットの力を借りて、簡単に答えへのヒントへアクセスすることができる。目の前の現象にメスを入れ、その背後に潜む歴史へとたどり着くことができる。わたちたちが日常目にし、手で触れ、耳で聞く、あらゆるものに歴史は隠れている。特に語源の理由、有名の理由、行事の理由などに典型的に。それを探る行為は、テーブルの下から手品のトリックを見上げるときのようにたのしい。対象に関する知識が背景にあったほうが、目の前のモノをより楽しめる。

以下は京都にまつわる雑学。

ところで、上御霊(かみごりょう)神社のお祭りは、何の祭りなのだろうか。当初はマイナーなお祭りかと思ったが、由緒を調べてみてびっくりした。1300年前の平安時代の初期にルーツがあるという。そして桓武天皇というビックネームにたどりつく。上御霊神社は、早良(さわら)親王(750~785)=桓武天皇の弟!(当時皇太子)を祀る神社だ。彼は、藤原氏が政権を握るための政争(785年、藤原種継暗殺事件)に巻き込まれて流罪になり、その後、淡路に連れていかれる途中で絶食して自害?したという。その後、都で不吉なことが続き、その原因が彼の「祟り」にあると当時の人々に恐れられたため、淡路島から奈良の大和に彼の墓を移すだけではなく、祟道天皇という「尊号」(これ、つまり生前は天皇になれなかったから、ごめんなさいの意味をこめて、ってことか)を贈り、上御霊神社を建てたという。奈良時代~平安時代の初期ごろ、人に恨みを残したまま無実の罪・疫病などで非業の死を遂げたとき、死後人々に祟るとされた怨霊の存在を信仰する御霊信仰がはやったらしい。863年にはじめて御霊会(ごりょうえ)が宮廷行事として神泉苑で行われ、上、下の御霊神社が設立された。菅原道真は有名な例。祇園も御霊信仰の中心地。

こんな由緒を、おそらく今日の祭りの参加者の多く、特に神輿をかついだドカタ風の兄ちゃんたちは知らないだろう。今や祟りなんて信じている人はいない。だいたい祟りって何年祭りを繰り返したら、早良親王は許してくれるって話だし。ではなぜ京都市の人々は、今もこの祭りを行うのか?と聞けば、「代々受け継がれてきた伝統行事だから」と答えるかもしれない。いや、それだけではないだろう。もっと別の、彼らにとっていい理由があるはずだ。祭りには、地域の団結を強化する機能があると思う。定期的に集まることで、絆を深め、自治意識の向上が期待できる。そしてハレの日として騒ぐことで、日頃のストレスを解消できる。当初の信仰は消え、祭は世俗化したが、依然としてその慣習は続いている。そして日本人はちゃっかりしている。太宰府でまつられている菅原道真の祟りを恐れ参拝する人は今やいなくなり、彼が「学問の神様」として単に受験生の崇拝対象になっているように、日本人は当初の意図は無視して、都合に合わせて利用目的を変えているように思える。

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by healthykouta | 2016-05-20 20:06 | Comments(0)

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今週の月曜、京都府立大学で行われた内田樹の講演会に行ってきたんや。「日本辺境論」を読んで以来、ワイすっかり彼のファンやねん。え?彼のどこがいいかって?うーん、ほな君は、先日話題になった文系学部廃止論について、どう思うとるんや。もし自分が文学部に属しとったら、自分の学部の存在意義が問われとるわけやから、そこに居続けたいと思うなら、きちっとした反論を叩きつけなあかんわな。内田樹さんも、2011年に京都大学文学部研究科で講演したとき、質疑応答の時間に経済学部の学生から、「大学で文学研究することに意味があるんですか?」って聞かれたそうなんや。その質問に対する彼の答えを紹介するで。

 『今の大学で、「存在しないもの」とかかわることを主務としているのは文学部ばかりです。世界内部的に存在しないものとかかわるもっとも有効な方法の一つが「文学研究」です。もしかするとあなたは自分がされている経済学というものがあたかも実体的なものを対象にしているかのように思っているかもしれないけれども、それは大変な勘違いです。だって、「市場」とか、「需要」とか、「消費動向」とか「欲望」のどこに、実体があるんです。欠如とか不足というのは事実としてあるかもしれない。けれども、「ない」から「欲しい」の間には文字通り「千里の逕庭けいてい」があります。フェラーリが欲しいとか、エルメスのバッグが欲しいとか、ipadが欲しいなんていう心的状態にはいかなる実体的根拠もありません。
 「貨幣」だってそうでしょう。貨幣の存在根拠は、「それが既に貨幣として通用している」という事実以外にありません。そして貨幣が通用するのは、それが「未来永劫に貨幣として通用し続ける」という幻想をみんな信じているからです。でも、国民国家なんかいくらも潰れるし、中央銀行の信用なんか簡単に地に落ちる。でも、そういう歴史的事実を無視しないと、貨幣は成立しない。実は貨幣を貨幣たらしめているのは思い込みなんです。
 経済学だって、実は幻想と物語を資料にして学問をしている点では文学研究と選ぶところがない。あなたは経済学部は「存在するもの」を扱っていて、文学部は「存在しないもの」を扱っていると思っているかもしれないけれど、経済学部も文学部も結局は人間の紡ぎだす幻想という「存在しないもの」を研究対象にしているという点では一緒なんですよ。文学研究は「存在しないもの」を専一的に「存在しないもの」として扱っている。その点では他の人文科学や社会科学よりはだいぶ「正気」の程度が高い。
 どんなふうに人間は欲望を覚えるか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直るのか、どうやって愛し合うのか・・・そうゆうことを研究するのが文学研究です。だから、文学研究が学問の基本であり、それがすべての学術の真ん中に存在していなければいけない。僕はそう思っています。(「最終講義 生き延びるための七講I」より引用)』
 
なっ、しびれるやろ?彼以上に見事にこの問いに答えた者をワイは知らんさかい。まあこれは彼の語りの真骨頂のホンの序の口やけどなっ。内田樹さんに興味わいたらぜひこうてみんさい。


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by healthykouta | 2016-04-22 20:29 | Comments(0)

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最近の自分は先行研究の山に知識に圧倒されて、「自分のアタマで考える」ことを忘れていた。好奇心に導かれて本を読んでばかりいて。マルクスという模範に習おうとして。これまさにショーペンハウエルが「読書について」で警告していたこと、そのまんま東である。


読書とは、他人にものを考えてもらうことである。

一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。


知識バカとでもいおうか。「思考の節約」という、頭を使うのをめんどくさがる人間の傾向性に流されていた。


それにしても、ほっといたらすぐ知識過多になってしまうすごい時代である。TV・スマホ・パソコンなどを通して、私たちは日々大量の情報の海でなかば溺れかけている。今や知識は記憶しなくても、知りたいときにすぐにネットで検索すれば呼び出せるようになった。知識のアウトソーシング現象。濱口秀司氏も、知識ばかり増えることを嫌っていた。(http://diamond.jp/articles/-/74301?display=b


他方で、考えるには以下の方法で自分でやらなきゃならない。

ちきりんさんの本には、論理的に考え、判断するための方法論が網羅されている。

・決めるための判断軸を列挙する

・なぜ?だからなに?と問う。

・もれのないように考える

・タテ・ヨコで比較する

・判断基準に優先付けする

・思考を図示する

・思考の棚をつくる


ゲーテも、過去の偉人から堂々と学ぶことを推奨していた。


結局われわれはどう立ちまわっても、みな集合体なのだ。

というのは、最も純粋な意味で自分の所有だと呼び得るものを、我々はごく僅かしか具有していないからである。

われわれはみな先人からも同時代の人からも受け入れ且つ学ばねばならない。最大の天才でさえも、自分の心にだけ頼ろうとしたら、大したことは出来ないだろう。

結局、自己の内に何かを持っているか、他人からえるか、独力で活動するか、他人の力によって活動するか、というのは皆愚問だ。要は、大きな意欲を持ち、それを成就するだけの技能と根気を持つことだ。そのほかのことはどうでもいいのだ。
ゲーテ格言集


「自分のアタマで考えよう」でのちきりんさんの名言は、「序」と「さいごに」にある。(カッコ内は私なりの補足・言い換え)


p20

『知識とは、「過去の事実の積み重ね」であり、思考とは、「未来に通用する論理の到達点」です。一部の知識は「過去において、他人がその人の頭で考えた結果」です。


それを私たちは書籍や講義、報道などの媒体を通して学んでおり、自分の頭の中に知識として保存しています。なにかを考えろ、と言われたときにそれを頭の中から取り出してくる(引用する)のは、「他人の思考を頭の中から取り出してくる行為」に他なりません。


他人の思考は正しい場合(歴史的に普遍性のあるアイデア)の場合もあれば、間違っている場合(時代のバイアスにとらわれているもの)もあります。時代や背景となる環境条件が異なる場合も多いでしょう。さらに危険なのは、それが「大きな権威をもつ、(しかしその立場ゆえに特定の利害を持ち、宣伝したい論を持つ)メディアや専門家の思考(・プロパガンダ・ポジショントーク)」である場合です。


その分野の大家と呼ばれる人が書き、歴史の判定を受けて長く生き残っている名著には、多くの場合「答え」が書いてあります。そんなすばらしい「答え」を目にしても、それに引きづられずに「自分で考え(、ときに疑い、自ら検証し、批判し、異なった結論に至)る」ことができなければ、私たちは未知の世界(不確実な未来)に向けて新たな思考を拓いていくことができません。(純付加価値のある論文を書くこともできないだろう。)


p243で、むろん彼女も認めている。

「本来は、書物や授業を通して先人のすばらしき思考の功績を知識として学び、さらにその上で自分の頭で考えるのが理想です。圧倒的なレベルの知識を前にしても、考えることをやめないのが本来あるべき姿勢です。」

これが研究者の思考のアウトプットである論文の純付加価値の創造


「けれど当時の私のように、「答えとしての知識」が目の前に現れてしまうと、さっさと考えることを放棄し、「なるほど!それが答えなのね!すごい!」と感心してそのまま受け入れてしまうような素直な(思想の酩酊体質)人は、まずは「考える」ことが「知る」こととは違うのだということを理解するところから始める必要があります。「知識」と「思考」を分離し、知識を思考にどう活用するか、ということを学ばないと、「知識を蓄えるだけ、覚えるだけ」になってしまうからです。そうなったら考える力はどんどん減退してしまいます。

思考の純付加価値の創造ができなくなる。


まとめると、ベストで目指すべきは、

・最大限先行研究から知識をインプット+その上に自分のアタマで思考をアウトプットする・・・マルクス

*ただし知識と思考を両立するという域に達するには、強靭な精神力と、思考のために意識的に時間を割く訓練を必要とする


セカンドベストは、

・自分のアタマでの思考アウトプット本位。そのために、最低限のみ先行研究から知識をインプットする・・・ちきりん、濱口秀司

*ただしこの人たちは、自分で考えたアイデアが、先行研究で既により優れた表現で著わされているリスクを負う。


本書を読むまでの自分は、

・最大限先行研究から知識をインプットをしていて、圧倒され、自分のアタマでの思考をおろそかにする知識のインプットもせず、思考もしない人


研究者として、自分の論文に純付加価値があることを証明するためには、先行研究のサーベイ・総ざらい(インプット)は必須。「彼らが何を考えたのか引用した上で、私は彼らに欠けていた、この点を更に深く広く考えましたよ」と言わねばならないから。とはいえ思考がおろそかになってはならない。


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by healthykouta | 2016-03-23 21:32 | Comments(0)
またの名を、性的承認欲求の肥大化

症状
・不幸感、男としての劣等感、無価値感。彼女がいる同性への激しい嫉妬。
・逆にいない奴に対しては、嘲るとまではいかないが、軽んずる気持ち
・モテる・イカすための方法論に異常な関心。
・セフレを持つことに憧れる。
・過去の偉人で複数回結婚の経験や、多い女性遍歴があると羨ましく思う。
・好きになった女の子を「落とせる」(好きにさせることができるという能力(コミュ力、話力、容貌、身長))を自分は持っていないと思ってしまい、そんな自分を受け入れられない。否定したい。
・性欲による快楽が他の快楽の中でも最高のものだと信じて疑わない。
・恋人になる以外に、セックスの対象以外に、女性と関係を構築できない。
・相手が友達以上には見なしてくれないとしたら、誰か他に自分と付き合ってくれる人を探そうと思う。

原因
モテ自慢に関する情報に本、ネットを通して触れたこと。それにより、「モテる」人生を送ることができるということが、男にとって理想または成功のロール・モデルで、それなれない男は才能がなく、価値のない奴、だと思うようになってしまった。(特定の生き方の規範化の進行)
性欲肥大化による合併症の可能性もある。

治療法
・愛される(モテる)ことより、愛することに集中する。(「愛するということ」エーリッヒ・フロムより)
・あなたの人生にとって、モテる以外に幸せになる方法(趣味)を想起する。
・結果出すまで努力し続けて自信をつける。
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by healthykouta | 2016-02-07 15:20 | Comments(0)
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この国の間接民主主義は、コロシアムで開かれている円卓会議のようなものだ。国民は職業と利害と関心などに応じて、それぞれ場所を占める。円卓の中心には政治家(ここを第1層とする)が、その周りには学者・組織化された利益集団・マスコミが座り(第2層)、更にその外側に、組織化されてない大多数の人々が立ち見をしている(第3層)。立法権という強い権利を持ちながら、選挙次第で職を失うリスクに曝されている政治家は、得票率極大化を狙い、我こそがあなたがたの利益を代弁し、よりよい改革を達成せんとする正義の味方である、ゆえにみなさまの温かい支持(1票)を!と大衆に向かって呼びかける。職業的学者や民間研究者などで構成される「専門家」は、権威を傘に着て自説を主張する。社会保障国民会議を含む有識者会議は第2層で開催されている。当該の政策に強い利害を持つ人々は、第3層から円卓のある第2層まで移動して「利益集団」を形成し、自分たちの共通した利益の実現を、拡声器を通して呼びかける。たいてい経済界は一大勢力をなしている。マスコミはコロシアム全体に聞こえるほどの声で、政治家、専門家、利益集団の声を報じる。

学者同士が意見の一致をみることは少なく、議論は混乱する。しかし、長い目で見れば、世の中というのは、時間が経てば正しい理屈のほうに落ち着く力を持ってはいる。マスコミの記者が賛成派・反対派のどちらが間違っているか学習するにつれて、まず報道が変化し始める。次に週刊誌の煽り文句が沈静化していく。そして義務教育の現場で使われる教科書の記述が変化し、人々の常識として浸透していく。今や天動説を信じる人がほとんどいないのは、皆が教科書でそれを事実として勉強させられたからだろう。しかしそれが定着するまでには時間がかかる。自らの誤解を知る機会がなかったり(その機会を意識的に避けたり)、自説の正しさを信じて疑わない人がいるからだ。だから、血液型で人間の性格を分類できる、コーラを飲むと骨が溶ける、強制従軍慰安婦はあった、金融緩和をすると物価があがる、等の学問的には根拠の薄い説がいつまでも生き残る。

第三層に居座る国民は、大抵目の前の自分の日常生活で忙殺され、ごくまれに時間に第一・二層で話されている声に耳を傾ける程度である。現代では議論の俎上に載る政策は、金融、国防、外交、医療、介護、財政、エネルギー、貿易など多岐に渡り、それぞれに関心を持つ余裕はない。ほとんどの公共政策は、第三層にいる大衆にまで影響を与えるにもかかわらず、実際の政策は第一層・第二層に属する人々の声を反映して決められる。第二層には異なる利害を持つ複数の利益集団が存在しており、声の大きな方の言い分が通るようになっている。いくら有権者が組織化に成功しても、声が他の利益集団よりも弱ければ、彼らの要求は通らない。原則は利益集団同士のパワーバランスで決まる。第三層の個人の声は大抵雑音か素人の戯言として無視される。

この現状をもって、「これは傲慢なエリート主義ではないか!」「民意を、世論を無視するな!」と思う人がいるかもしれない。確かに自分の声が政策に反映されないと感じる人にとって、現状は民主主義だとは言えないのかもしれぬ。だが、彼が思い描く真の民主主義は理念としては美しいが、実現可能性がない。(実現可能性がないからと言って、現状維持が望ましいと主張しているわけではない。)第三層のほとんどの大衆は、第二層まで入ってくる時間的・体力的・経済的余裕がないからだ。まず政策に興味を持つことは稀であるし、興味を持ったとしても、自分の生活における優先度はいきおい低くなるし、しばしば制度や論点は複雑なため理解が難しい。新聞を毎日端から端まで、出来れば新聞各社の論調を比較しながら、読める時間がある、または読みたいと思うほどの体力と関心があり、内容をしっかり把握できる、そんな人はほとんど存在しないという事実がそれを端的に示している。せいぜい自分の生活がダイレクトに利害を左右されると強く感じる特定の政策にだけ反応し、第二層に参加する程度だろう。原発が立地する県民が原発政策に、高齢者が年金政策に、沖縄県民は米軍基地問題に、医師は医療政策に強い関心を持つように。これが現代の平均的な大衆が当事者意識を持てる能力の限界であり、それを超えて第三層の有権者がすべての政策において第二層に移動して、自身の声を政策に反映させることは不可能だ。

では組織化されていない第三層の有権者が損を被るような政策が為されたとき、その責任は第三層の有権者自身が負うべきだろうか。コロシアムの中心で話されていることに関心を持たず、第二層に移動しなかった大衆の自己責任なのだろうか。この問いに答えるのは難しい。人間の能力の限界は測りがたいからだ。一日は誰にでも24時間平等に与えられており、その時間を何に使うかは個人の自由意思によって決められているとも考えられる一方、第3層の人々が多忙なのは、彼ら自身のせいではなく、現在の社会システムが彼らを強制的に長時間拘束しており、第2層へ参加するための自由は実質的に奪われているともいえる。私は程度問題だと思う。自由意思がある程度に応じてその結果に対する責任も生じる。

逆説的だが、この民主主義の成否を分かつのは、大衆ではなく、学者をはじめとする少数の知識層なのかもしれない。無知に陥っている大衆に情報を供給して生かすも殺すも、第三層の立場に立てる彼ら情報強者が左右するからだ。通常第三層の人々は、一見無関係に見える政策の多くが実際自分の生活に影響を与えるにもかかわらず、それを知らない。年金を受け取り始める年齢は60歳から70歳の間で自由に選べること、若者が年金の3号制度ゆえに非正規に貧困になっているという因果、経済界にとっては都合のいい新自由主義的な雇用制度の犠牲になるのが若者であることなども知らない。だからこそ、能力・時間的余裕に恵まれた、専門家やマスコミ、政治家などが第三層の人々の代わりに全体を導かざるを得なくなる。だが、彼らに第3層を含めた国全体の利益を考えるモラルが備わっている保証はない。人類の社会改革の歴史をみればわかるように、正しい意図を持つ者が正しい世界を作れる保証もない。だから、一国の民主主義が機能するか否かは、良識のある知識層がどれだけいるかにかかっているのではないかと思う。

主要参考文献
再分配政策の政治経済学I 権丈善一

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by healthykouta | 2014-11-13 22:44 | Comments(0)