カテゴリ:幸福論( 13 )

アフリカのピグミーたちは、「急ぐことは、死につながり、ゆるやかに進むことは、生を豊かにする」

と、信じているらしいが、全くその通りだ。(水木しげる)



京の見所は春の桜、紅葉の秋のみにあらず。都の名所は金銀清水嵐山のみにあらじ。草鞋を脱いで中に入れば、畳敷きの広い部屋があり、縁側越しに庭園を眺めることができる。そういうお寺は数多くあるけど、格別にボンヤビリティの高い場所が京都にはありました。敬虔な仏教徒ではなくてもそこに座るだけで自然とATフィールドが解けてしまうのです。即身成仏はどだい無理だけど、なんだかはんなり涅槃にいるような気がしてきます。京都駅や四条のとんでもない人の多さとはうって変わって、そこだけピンと張りつめた空気。メジャーどころではないため、観光客はそこまで多くないけど、ボンヤリストは今日もこっそり参集しておるのです。以下ではそんなおきにいりの場所を5つご紹介します。写真は実物の雰囲気には及ばないので載せていません。



・園通寺の方丈

拝観料500円 抹茶は別料金

「借景」について学べる。木の幹がちょうど額縁のようになっていて美しい比叡山を見ることができる。鳥越俊太郎が学生時代ここで数時間ボンヤリしまくったらしい。この場所を選んだ後水尾天皇の美意識すげえってなります。


・高山寺の石水院

拝観料500円 抹茶は別料金

「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」でお馴染みの明恵上人が過ごした場所。澄んだ空気と絶景。鳥獣人物戯画があった(本物はだいたい博物館に出張している)。日本初とされるお茶畑も。近くには空海が長いこと過ごした神護寺もある。市内からちょっと遠い山の中にあるが、かなりボンヤリできる。


・正伝寺

拝観料300円。とてもとても静かでボンヤビリティは高い。血の床が天井にある。


・無鄰菴

拝観料300円 抹茶は別料金

山形有朋の別荘。赤い松があって雪の積もった姿はとても綺麗。でも年中いついっても面白い。庭園の意匠について親切な解説がある。近くには動物園や南禅寺があり。伊藤博文らが日露戦争を決断したときの部屋がある。


・詩仙堂

拝観料500

こじんまりとしたしかし充実した空間。いろんな種類の植物が色めく春か秋がベストかも。獅子脅しの規則的な音が響く。


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マザー・テレサが亡くなってから18年後の3月、私はカルカッタにある「死を待つ人の家」にいた。彼女に関する、ある素朴な疑問を解くためだった。マザー・テレサは、貧しいインド人たちに対して善行を施したことで知られているが、それは余計なお世話ではなかったのか?というものだ。


インド人独特の「輪廻」に基づく死生観は、前世の業(カルマ)が現世の生を決定するという。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。 天国での永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた。これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。(wikipediaから中村元『原始仏教:その思想と生活』日本放送出版協会〈NHKブックス〉2007年 の孫引き)』


この思想に基づくと、「現世で不遇な生を送る人間の原因は、前世で何か悪いことをしたことにある。よってそれは自業自得であり、他人は手を差し伸べるべきではない」という考えが導けるのではないか。ヴァラナシからカルカッタに向かう電車のプラットホームで、行き倒れになっているお婆さんをみた。その光景自体が衝撃的だったが、もっと衝撃的だったのは、そのお婆さんがまるで存在しないかのように、傍を通りすぎていくインド人たちだった。電車が来るまではまだだいぶ時間があるのに、なぜ誰も彼女を助けようとしないのか?赤の他人に無関心なのはなぜか。あのお婆さんが前世で何か悪いことをしたから、その報いを今受けているのだ、とインド人は考えているのだろうか。輪廻を前提にすると、今の生が終わったところで、また生まれ変わって次の生が始まるという流れを繰り返すだけだから、死は終わりではない。ゆえに輪廻の流れに手を加える必要はないと考えていたのだろうか。その後電車の中で知り合ったアメリカの大学で経済学を学んでいるという若いインド人に質問すると、今のインド人は自分が豊かになることで精いっぱいで、他人に優しさを施す余裕がないからだ、と言っていたが。。。


インドに行ったことがない人にも、マザー・テレサが何をした人なのかはよく知られている。

“スラムを歩いていたマザーは、道端に転がっている者に気づきます。近づくと、それは行き倒れになった女性でした。 わずかに女性の指が動きました。「まだ生きている。」死にかけた人が道端に放置されていることにマザーは驚きます。 すぐに、マザーは女性を病院に運びます。しかし、病院の医師は女性を見て言いました。「だめだ、こんな人間はコルカタに何百人もいる。」マザーは諦めずその場から動きません。 医師はマザーに根負けし、女性は無事病院に引き受けられました。しかし、マザーの心には医師の言葉が突き刺さっていました。「そんな人間は何百人もいる。」道端で人が死ぬことが当然とされる社会と人々の心。最も貧しい人たち。その存在にマザーは気づきます。ただ、物質的な貧しさだけでなく、誰からも愛されず見捨てられた人。この人たちこそ自分が救わねばならない。


早速、マザーは行動に移します。 市役所を訪ね、路上で死にかけている人々を見取る場所を提供して欲しいと訴えました。 マザーの熱意に動かされた役人は、ある場所を紹介してくれます。それは、コルカタのヒンドゥー教の聖地、カリー寺院でした。 その休憩所を、使われていないからという理由で貸してくれたのです。早速、マザーたちは路上で行き倒れている人々を引き取り介抱します。衰弱が激しく、自分で食べることの出来ない人の口に食べ物を運びます。 そして、助かる見込みが無くても薬を与え、出来る限りの治療を施しました。後にマザーは語っています。「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後は大切にされ、愛されていると感じながら亡くなってほしい。 彼らが、それまで味わえなかった愛を最上の形で与えたい。」施設の名は、『死を待つ人々の家』。誰からも見捨てられた人たちが、人間として尊厳ある最後をむかえる場所です。(http://waratte.nosmilenolife.jp/edn/edn081220.html)


マザー・テレサは、「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後は大切にされ、 愛されていると感じながら亡くなってほしい。彼らが、それまで味わえなかった愛を最上の形で与えたい」という思いから、死を待つ人の家を用意し、当時今よりもっと沢山いた生き倒れになっている人を収容し、死ぬまで世話をした。彼女の行為は、キリスト教の教えに基づいていた。そしてその献身は、世界中で多くの人の心を動かした。日本にいたころ、東京の主要な駅でホームレスを見ても、声をかけることもできなかった自分とは天と地以上の差があった。

 

たった1日だけだったが、死を待つ人の家でボランティアをした。そこで私が担当になったのは、お腹に末期ガンがあり、寝たきりになっている、もう骨と皮だけの、骸骨のようなインド人だった。名前はわからず、ただベットの上に「20」という番号が書いてあるだけだった。私の仕事は、部屋の掃除や、彼の身体に軟膏を塗り、食事の時間に彼が食べるのを手伝うことだった。私はヒンディー語はもともとわからなかったが、彼もそれを知っているのか話す気力もないのか、言葉を発する代わりに身振りで指示をした。


彼は食べようとしなかった。もう自分は助からないことを悟り、食べないことで死のうとしているのだ、と思った。私はそれでも無理やり彼に食べさせるべきなのか迷った。それをやることがまさに仕事だったのだが、彼が自分の命を思い通りに終え、病の苦しみから解放する権利があるのではないかと思ったからだ。結局私は本人の意思を尊重して、無理やり食べさせようとはせず、彼の指示するままに、ベットの下に皿を置いた。しかしシスターに相談すると、「彼はいつもああだから」と言って、むりやり彼の口に食べ物を流し込んだ。彼はむせかけながらカレーを飲み込まされた。マザーハウスに来たばかりで「ここのやり方」を知らぬ身としては、それが正しいことなのかどうか、そのとき私はシスターに問うことが出来なかった。


既に3週間ボランティアしていて、今日が最終日だというフランス人は、彼が食べようとしないのは死にたがっているからではなく、単に食べ物が美味しくないからだと考え、明日彼のために市場でバナナを買ってくると笑顔で言っていた(注:本来施設で提供されるモノ以外の食事を与えることは禁じられているが、ボランティアを一定期間続けた者は、最後に一つそのルールを破ることができるという。本来禁じられているが、施設内の写真を撮ることもできるという。彼はその権利を、バナナを買うことに使おうとしていた)。私はあげないほうがいいのでは?彼もそれは望んでいないのではないか?とは言えなかった。


物心がついたばかりの子供が世の中に絶望して死を望むことはある。そういうとき、間違いなく親や学校の先生は止めるだろう。子供は後になれば、あれが一時的な気の迷いだったと悟るかもしれない。だが、あのNo.20のケースはどうなのだろうか。彼は無理やり食べさせられている間、「愛されている」と感じられただろうか。明らかに「死を待つ人の家」では、もう手がつけられなくなるまでは積極的に延命させることを方針としていた。「死を待つ」という看板に偽りはなかった。彼のように末期の病気ではない、別の元気な患者たちは、自分が路上で発見・収容された当時の自分の写真を見て、治療を施された今の自分と比べて、「これが俺だぜ(今とは別人だろ?)」という感じで笑い合っていた。本人も嬉しそうだった。


マザー・テレサは、人道的観点からはとてもいいことをしているように思えるが、「死の待ち方」に関する考えが異なる他者への行為の面で、難問が浮き彫りになっていた。

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慶応義塾大学と早稲田大学には昔から、私大の雄としてのライバル意識がある。余所者から見たらまことにどうでもいい対抗意識なれども、当人達はなにかと競い合っている。たまたま読む機会のあった本の著者がそれぞれ早慶出身で、同じくらいの年に生まれていたので、早慶戦にならって2人の生きる様を比較した。すると、面白い共通点がみえてきた。


今回選んだのは、駒崎弘樹氏と坂口恭平氏だ(以下は敬称を略し名字で書く)。興味深い共通点として両者とも、学部時代に人並みの「就活」をせずに卒業し、当初フリーターであった。慶応総合政策学部出身の駒崎は1979年生まれの現在37歳であり、早稲田工学部建築学科出身の坂口は78年生まれの38歳。ほぼ同い年だ。駒崎は「病児保育」問題を、自らがフローレンスというNPOを設立し、国からの補助金に頼らずに、事業を持続・全国的に拡大させる仕組みを実施することを通して、解決することを目指している。彼の考案したモデルは、国の政策にも取り入れられた。坂口は「土地の所有」に疑問を抱き、0円で生きられる方法を路上生活者(≠ホームレス)から学び、3万円程度で自作できる家(モバイルハウス)を制作し、震災後は「新政府」を設立して自ら総理大臣に就任し、新しい経済のあり方を構想するなどしている。


両者とも学部時代に、今の社会に"おかしさ"を感じるきっかけを持った。それぞれの著書に、その部分の描写がある。駒崎の抱いた違和感は、ベビーシッターの母との会話の中にあった。


“「え、なんで?」

「そう思うでしょう?私もおせっかいだからさ、聞いちゃったわけよ。『あなたみたいないい人が、なんでクビなのよ?』って」

「うん、そうしたら?」

「その人はこう言ったの。『先日この子たちが熱を出したんです。うちの保育園では37.5度以上の子は預かってくれません。だから私が会社を休んで子どもたちを看病したんですが、双子だったのでお互いにうつし合ってしまって、1週間ほど休んでしまったんです。そうしたら会社が激怒して、私は事実上、解雇になってしまって』」

僕は自分の持っていた携帯電話を一度見て、「そんなのおかしくない?」と聞いた。

「そうよ。おかしいのよ。まったくおかしい話だわ。」と母は憤慨して言った。

(中略)

子供が熱を出すことなんて当たり前の話だろうし、それを親が看病するっていうのも、当たり前の話だ。当たり前のことをして職を失う社会に住んでいたなんて。”(『「社会を変える」を仕事にする』p.69)


坂口の違和感は、建築現場で彼が見たものから生じた。


“土地に対して興味を持ったきっかけは、大学時代に大工の修業をしている時だった。弟子入りしたのは東京・東中野の町大工で、僕は家一軒を建てるまでのすべての工程を見せてもらうことになった。基礎工事から全部かかわったのだ。初めて体験したその現場で、僕は、植物が根こそぎ掘り出された大きな穴にコンクリートを流し込んでいく過程が、どうも生理的に受け付けられなかった。なんかこれ、普通に考えたらおかしいような気がするけど、なんでみんな平気な顔でやっているのだろう?不安になってきて、親方に聞いた。

「えっ、これってなんかおかしくないっすか?親方!昔はただ石ころを置いてその上に家を建てていたわけでしょ?なんで、こんなに掘って、そこにコンクリをぐりぐり流し込むんすか?」

「そうだよなあ。やっぱおかしいよなあ」親方は迷わず、そう返した。”(『独立国家のつくりかた』p.65~66)


なぜ両者は、就活をしなかったか。駒崎の『「社会を変える」を仕事にする』には、まるで今の慶応での出来事かと思ってしまうような、印象的なシーンがある。


“2週間ほどたって、珍しく大学で授業を受けたあと、一人で食堂に行った。

食堂はキャンパス内の大きな池に面していて、窓際は眺めがいい。池は湖のように静かな水面をたたえ、降り注ぐ陽光を照り返している。一つ目の前のテーブルに男一人、女の子2人のグループが座った。人影がまばらで静かだった食堂に、彼らの話し声が響いた。

「でさ、俺はGS(ゴールドマン・サックス)とメリル(メリル・リンチ)とJP(JPモルガン、いずれも外資系証券会社)とで迷ってるわけなんだけど、自分を一番高められるところはどこなんだろう、って考えてるわけさ」

「えー、先輩すごいですよー。なんでそんなにレベル高いところの内定をゲットできちゃうんですか」

「うーん、そうだね、やっぱり学生時代からロジカルシンキングを磨いてきたっていうのも、あるよね」男は眉毛の上のほうを指で触りながら言った。

「外資とか受かる人ってやっぱり違いますよねー」もう一人の巻き髪の子が言う。

「いや、違うっていうことはないと思うよ。俺もそうだけど、みんなふつうさ。でもさ、やっぱり外資の方が、自分を活かせる、って感じがするじゃない?もちろん、これは一つのステップに過ぎなくて、三年後にはMBAを取りにアメリカに行くけどね」

「すごーい」と二人の女の子は口を揃えた。


口のなかの苦味が増している。このふざけた野郎の後頭部が僕をいらだたせた。「就職偏差値」の高い企業に行けば自分は「イケている」という、甚だしい勘違い。今までママの言うことを聞いてレールに乗っかってきたやつが、お受験とまったく同じ意識で行う就職活動。自分が勤める会社の国籍がアメリカだというだけでブランドを感じてしまう植民地根性。自分が何をしたいのかもよくわからないのに、とりあえずMBAを取ろうとするばかばかしさ。それを聞いて、すごいすごい、と感嘆する、見た目はきれいな女の子たち。(『「社会を変える」を仕事にする』p77-80


その後、駒崎は自分とその憎たらしい男が違わないことに気づく。すなわち、どちらも肩書きや、世間でもてはやされるブランドに寄りかかっていた(注:当時駒崎は友人が起業したIT企業の社長だった)のだ。その後駒崎は社長を辞め、卒業と同時にフリーターになった。


坂口は、世間の常識ではなく、自分の生理的な感覚に従って生きることにした。


“そんなわけで、大学三年生の時に僕は建築を建てるという思考を完全にやめた。そこから生理的におかしいと感じたものに関しては、とにかくゆっくりと、怒らずに、感情的にならずに、とりあえず答えが出なくても考えてみることにした。

(中略)

「結局、それじゃ食えないから仕方がない」と大人はよく言う。だから、僕は仕方がないと言って生理的に受け付けないものをやる行為そのものを封じ込めることにした。食えなきゃ食えないで、自分でなんとかしろという生き方を選んだ。だから設計もしなかったし、就職もしなかった。それでも生理的にはとても心地よく、楽しかった。僕はギターが弾けたので、路上で試しに歌ったところ、日に1万円稼げた。それですべて解決した。僕は一生飢え死にしない、と。

(中略)

生理的なトリガー(引き金)によって考え始める。そこには自分が考えなくてはならない、使命といっては恥ずかしいが、何らかのやるべき仕事が隠されている。それが僕には「土地」について考えることだった。(『独立国家のつくりかた』p.68~69)


その後、どのように2人が道を切り拓いていったか、興味を持った人はぜひそれぞれの著書を読んでみてください。

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A「見よ、世の大学生を。異性と出会い、彼氏・彼女をつくってヤりまくりたい人のなんと多いことよ。社会人になったって、合コン・風俗・クラブは栄えるばかりである。日本のみに限らず、オーストラリアなどの先進国でも性の乱れ(?)は甚だしい!」

B「しかし、彼らを指差して汚らわしいわ!とか軽薄な奴め!とかこの猿!とか尻軽ビッチ!とか批判するのは妥当だろうか。なぜなら性欲は、食欲と睡眠欲と並び人間の三大欲求の一つと言われている。生物的本能に根ざした、それほど強い欲求なのである。寝るな食べるなと言ってもどだい無理なのと同じである。無理なものを求めてどうするのであろうか。まったく仏教徒や禁欲主義者は何を考えているのだろう。子孫を残そうというDNAが組み込まれた動物が、ある時期まで成長すると発情するのと何が異なるのだろうか。人間以外の他の動物は、欲望を抑えたり逆らったりはしないだろう。人間は社会的規範が個人的欲望と対立するだけの話だ。人間も動物である。自然な欲望を否定してどうするのか。

話はなにも性欲に限らない。承認欲求や名誉欲、自己実現欲求といったものもそうだ。人間には物心がつく頃から、人に認められたい、ほめられたい、大切にされたい、評価されたい、すごいやつだと思われたいという欲望がある。そんな人間に、自慢話ばかりするな、いい人を演じるな、出世を目指すな、SNSを頻繁に更新するな、と言っても無駄だろう。それが強い根源的な欲望に基づいているのだから。」

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上記の論法は、自然法哲学者のものの考え方に一致する。彼らは事物の自然秩序から道徳法を導いた。簡単に言うと、ある現象が「自然」なら、それは合理的ゆえに正当化される、という考え方だ。ミュルダールの「経済学説と政治的要素」によると、『自然法哲学の特徴は、「存在」と「当為」とを、現実と義務とを、直接にそして論証の順を経ずに同一視しようとしたことにある。それは単純に理性と自然とを等しいとみている。(p44)』。人間の欲望=自然ならば、それは望ましいというわけだ。

この考え方は、アダム・スミス以降の古典派経済学が提出した「自由放任」という思想の形成にも貢献した。人々は自分自身の利益を追求するが、それは自然なのだから、政府は邪魔するべきではない、という風に。ホッブスやロック、ルソーの想定した「自然状態」の説も同様に、近代社会の原理、国家統治の正当性の原理を置くために構想された試みとして理解できる。(参考:哲学ガイド http://www.philosophyguides.org/qanda/what-is-state-of-nature/

そんな中、18世紀のスコットランドの哲学者、デイビット・ヒュームは、道徳命題の妥当性を疑った。彼は、事実を積み重ねても当為命題は導かれない、すなわち「である」と「するべき」は異質で、その結合は主観的であるがゆえに不確定であるという懐疑を示した。上にあげた性欲や自己実現欲求という欲望が本当に「自然」かという点では大いに議論の余地はあるが、仮に自然だと仮定しても、ヒュームはだからといってそれを充足する行為が望ましいと主張することは出来ないとした。ヒュームに従えば、人間に性欲が自然にそなわって「ある」からといって、性欲を満たす「べきだ」とは言えないというわけだ。

ではいかなる根拠でもって欲望充足行為は正当化されるのだろうか。ミュルダールからの孫引きになるが、J.S.ミルは、「いかなるものもそれが望ましいということの唯一の証明は、人々が実際にそれを望んでいるということである。幸福は誰でもそれを望むから望ましい」と論じた(p80, 同書)。果たしてそれだけなのだろうか。欲望を正当化するのは欲望以外にはないのだろうか。

もちろん、あらゆる欲望を社会が無条件に承認することはない。たとえば、人を殺したいから殺す、といった犯罪行為は、許されていない。理由としてあげられるのは、法律で定めているためとか、功利主義的にダメとか、「己の欲せざるところを他人になすなかれ」という格率を根拠にしたり、「ならぬものはならぬ 」といったものまで。このように現実社会では様々な理由をあげて欲望充足行為を制限している。
(参考:会津藩校 日新館HP http://www.nisshinkan.jp/about/juu



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想像力は暴走する。
過去を悔やみ、未来を心配させるのは、人間が持つ想像力だ。「後悔のない人生を送るべし」とはよく言われるスローガンであるが、人が生きる限り失敗はなくならない。後悔が失敗経験に端を発する限り、後悔をすることはなくならないだろう。他方で、人生には、不確実性―先の見通しがつかない状態―がつきものだ。不確実性は、可能性(≠蓋然性)と同様、確率的に推計できない出来事のことであり、期待と不安が混じった感情を引き起こす。◯△に怒られたら、嫌われたらどうしよう、地震・雷・火事・津波がきたらどうしよう、交通事故にあったら、試験・就職活動に落ちたらどうしようといった類のものである。あらぬ方向に想像力を使いすぎると、悲観的なビジョンにとらわれてしまう。

想像力が引き起こす被害妄想に囚われた重症患者の例
https://www.youtube.com/watch?v=1qvyWFIIlkQ


齋藤孝の「座右の諭吉」によれば福沢諭吉は処世術として、
『事にあたりて最悪を想定し、その状態が起きないように行為せよ。(=いわゆるマクシミンってやつ)そうすれば安心だ。』
というようなことをすすめたというが、これは想像力を暴走させるには逆効果だ。かえって負の妄想にとらわれてしまう。その状態を、アランは「幸福論」でおもしろくかつ象徴的に表現した。

『散歩をしている人が自動車にぶつかって、20mもはね飛ばされ、即死する。惨劇はそれで終わりだ。はじめもなければ、つづきもない。持続が生まれるのは反省(≒想像)によってなのである。

わたしは事故のことを考えるとき、きわめて間違った判断をする。わたしは、いつも今にも押しつぶされようとしていながら、けっして押しつぶされることのないような人間として、判断しているのである。わたしは自動車がやってくるのを想像する。実際には、そんなものを見たら、私は逃げるだろう。しかし、私は逃げない。なぜなら、わたしは轢かれた人間の立場に身を置くからだ。 

自分自身が轢かれるのを、まるで映画の場面のように、思い浮かべる。しかも、スローモーション映画のように、そして、ときどき止めたりさえしてながめる。そしてまたそれを繰り返す。千度も死んで、しかもぴんぴん生きている。』

しかも想像力は頑固で、しばしば不毛なことにも発動してしまう。たとえ長年の経験則から、心配事の多くは実際は杞憂に終わるだろうことを理性では知っていても、想像力はとまらない。アランは

『想像のはたらきには、思考をもって打ち勝つことはできない』

という。ゲーテは、

『われわれが不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性は全く癒すことができない。理性もほとんどできない。時間がかなり癒してくれる。これにひきかえ、固い決意の活動は一切を癒すことができる』

という。ここには、理性(思考)<想像が引き起こす感情<行動といった序列がみられる。

では想像力はなんのためにあるのだろうか。地球上では人間だけが持つように見える。犬は人間と違って将来のことを案じているようには見えない。巣にせっせと餌を貯めるアリは、ひょっとして蓄えをしないで冬を迎えたキリギリスのようにはならないように計画的に未来に備えているのかもしれないが。

ショーペンハウエルは「幸福について」で、
『幸・不幸に関しては、あらゆる点において、想像力に制限を加えるがよい。したがって何よりもまず空中楼閣を築かぬがよい。空中楼閣は建てる端から溜息とともに取りこわさなければならない性質のものだから、犠牲が大きすぎるきらいがある。』

と言ったが、想像力は克服すべき対象なのだろうか。私はそうは思わない。想像力は人を後悔と不安に苛むためにあるのではない。あらゆる技術・道具も、使い手次第で悪くも良くもなるのと同様、想像力はうまく使うことで、世渡り上手になれないかと思う。アランやゲーテは想像に囚われずとにかく行動すべしと説いた。確かにそれは想像力の暴走を抑え、意識を他のことに向けるためには役立つが、想像力は単に抑圧すべき対象ではないとすれば、なにに用いるのが有効だろうか。幸福論の観点(「幸福=過度に後悔や不安を感じることなく、心に平静を保つ状態」と定義する)から考えたい。

想像力は自分の過去と未来へ向けてではなく、他者へ向けて使えば有益だと思う。またもやゲーテは、
『自分を他の人の立場に置けば、われわれがしばしば他の人に対して感じる嫉妬や憎悪はなくなるだろう。また他の人を自分の立場に置いたら、高慢や独りよがりは大いに減ずるだろう。』



と言う。

また、新渡戸稲造は「人生雑感」の中の「物を思う人」で、以下のように語った。

『四、五年前、ある人から、何某という博士が私の悪口を言っていたことを聞いて、その後その人に会うたびになんだか胸が悪くなったが、あるときその人がかわいそうな婆さんを世話していることを聞いて、その悪感情が去った。すなわちその哀れを思う心を見て、前の悪感がなくなったのである。いったいわれわれが好きとか嫌いとか言っているのは、よく知らないで言ってることが多く、ひと口に虫が好くとか好かぬとか、罪を虫に帰してしまうのである。けれども表面のみ見るのではなく、その奥にある哀れ、哀れを思う心を見ると、虫の好かぬことが理由のないことを発見する。』

つまり、想像力(共感)をもって他人に臨めば、負の感情を抑えることができるということだ。どんな馬鹿げて許し難くみえる人間の言動や行動にも、なんらかの事情が隠れている。見つけられる人にはそれがわかる。逆に、他人へ及ぼす想像力が足りないとき、人は羨望・嫉妬することが多いのではないか。すぐ感情的になってしまう人は、対象への想像力を十分に使ってない証拠ではないか。



 ある人曰く、「僕が失望などするはずがない」と。その意味は、失望とは相手を想像できない者に起こるものであり、はじめから物事の帰結が想像出来ている人には、そうなることがわかりきってるから、期待はずれを感じて、失望することがないということだろう。まず相手の事情を想像すれば、自分と違うグループにいる人間を安易に敵視したり対立感情をもたずに済む。具体的には、相手の職業・立場への想像力をはたらかせることで、よく批判の的になる政治家や官僚などに対して、彼は同情できている。だれでも答えのない不確実性に向き合って行動しているのだということ。政治家も就活生も例外なく生活が懸かっていればウソもつきたくなるし、誇張もしちゃうということ。激しい競争環境の中では、市場参加者が職業倫理を守り通すのはキツイということ、など。そのために彼は、政治家の懐事情、メディア、大衆、学者、官僚、そして比較のための海外の情勢をいつも集めている。



理想は、相手の振舞いに必然性を見出すまで想像力を使うことだ。すなわち、自分も相手と同じ立場に置かれたら、同じように行動するかもしれないと思えるようになることだ。病気が原因で不機嫌な人を、病気ならば仕方ないと受け入れられるように、なぜか、人は必然的な事柄には寛容になれるところがある。逆に、そうでない選択肢もあったのに、そちらを選ばなかったと思うとムカムカしてくる。



想像力は、なぜ彼/彼女はかく行動・発言したのか?と問うことで鍛えられると思う。

要するに、想像力は、自分よりも、他人に向けるべきなんじゃないかということだ。
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 今から約100年前、夏目漱石は、「道楽と職業」という題で講演をした。道楽とは「自分のためにする仕事」のこと。今の言葉でいえば趣味・娯楽のことで、人がスポーツや旅行・釣りなどにいそしむように、身体が疲れるのも横着せず、自主的に時間を費やし、嬉しがる一切の活動のことだ。一方で、職業は「人のためにする仕事」だ。今でいえば労働・商売のことだ。生活の資を得るために、現代では多くの人が学校を卒業すると就職(就社)し、日夜仕事をしている。仕事の内容・分量の多少は他人の命じるままで、他人の基準に合わせて働く。体調がすぐれなくても、仕事(お客さんの要求)を優先される。このように、職業は他人本位である。 そして、「この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的には、はなはだ厭なものである。」だから趣味でスポーツをしていたのが、プロを目指しそれを職業にして生活しようとすると楽しみが失われたりする。要するにどんな行為をするにせよ、それが自己本位で気ままに取り組めるうちは楽しいが、それが職業になり、(金銭を介して)顧客から一定の成果・要望を求められるよう(他人本位)になると、もはや道楽ではなくなってしまう。ただし、学者や芸術家など、他人本位では成り立たない例外的な職業もある。 

 電車やカフェで周りの社会人の声に耳を傾けていると、よく聞かれるのが、仕事・会社の愚痴に並んで、「次の週末・連休にする予定」だ。平日はもっぱら仕事に追われているから、好きな趣味・娯楽に打ち込める休日を心待ちにしているというわけだ。彼らは仕事以外に楽しみを見出し、休日の使い道を充実させることに、慰めを見出している。基本的には月曜から金曜までは会社で「他人のための」仕事に打ち込まなければならないのに、心ここに有らずといった感じで、自分のために好きなようにすることができる将来の道楽に意識が向いている。日本のサラリーマン戦士は実質人生の多くの時間を職業上の仕事に捧げなければならないのに、これってどうなのだろうか。そんな人生いいのだろうか。 

 なんとかして、学者や芸術家以外の職業上の仕事も、道楽に一致させることはできないだろうか。つまり「他人のためにする仕事」を、「自分のためにする仕事」に変えることはできないだろうか。それが出来ている人はいるのだろうか。これは仮説だが、仕事に「やりがい」を見出している人の多くは、仕事の内容そのものに没頭しているか、様々な欲求や感覚(承認欲求、自己顕示欲、目標達成感、 自己実現欲求、創造性発揮感、社会への貢献などの意味への欲求、好奇心)の充足に支えられているのではないかと思う。

未完

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Q. セネカ、卜部兼好と、スティーブ・ジョブズの思想に共通するものは?

 

ヒント

・諸君が何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。(中略)毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。(生の短さについて)

もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、一生を送る、尤も愚かなり。(徒然草 百八段)


・“If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right. It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html)”

 

彼らの思想に共通するのは、日々を人生最後の一日だと思って生きるようにすることだ。そう考えることで、未来を頼りにして現在の一瞬をおろそかにしないことを勧めている。ふつう人は自分がいつ死ぬかを知ることはできない。いまを生きる日本人の多くはまさか自分が今日死ぬかもしれない可能性などほとんど信じないだろう。平均寿命とされる80歳くらいまで生きられるのではないかと根拠なくあてにしている人もいるだろう。つまり時間・空間を越えた彼らの遺言が、現代人に聞き入れられているとは考えにくい。

 

それではあえて「これから24時間後に絶対にあなたは死ぬ。これは避けられない」ことを今知らされたと仮定するならば、何をして死を迎えるか。ひとつ考えてみたい。

 

未来を奪われたあなたは、まず就活をやめるだろう。会社説明会に出るのも、ESを書くのもばからしい。次にコンビニで全財産を現金に下ろす。消費者金融で借りるのもいい。地獄まで借金取りは追ってこれないから。24時間で死ぬとなると、犯罪をおかさないようにあなたの行動を抑制する良心は幾分やわらいでしまうかもしれない。とにかくお金はいくらか手に入る。でもそのお金で何をする?豪遊に決まっているではないか。考えられる限りの贅沢を尽くして享楽に耽るだろう。うまいものを食い、買いたいものは買い、行きたい所へ行くだろう。その後は、会いたい人たちに会うだろう。彼らはおそらくこれまで自分にかかわった家族、友だち、恋人など、一緒に時間を過ごした人たちが中心になるだろう。これまでしてくれたことに対する感謝を伝え、自分が逝った後のことも話題になるだろう。そろそろ残り時間が迫っているがこれで十分だろうか?いや、まだやり残したことがある。それは、何か自分の死後も残る「作品」を創ることだ。その作品は絵、文章、仕事(プロジェクト)、子どもなど無数に考えられる。

 

さあ、これで全てやるべきことはやった。あとは死ぬだけ!いや、まて。本当に未練はないか?そういえば私はなんのために生きたのだ?快楽を追及・享受して、愛する人たちに感謝して、創造的な仕事をする。これらが生の目的なのか・・・?このすっきりしない気持ちはなんなのだ。生への本能的な執着?それならば運命を諦めて受け入れればいい。満ち足りることを知らない欲望か?それならば欲のハードルを下げ、自足できるようになればいい。この不満感が無くなればきっと心安らかに死ねるだろうが、死ぬ前にひとつこの気持の正体を突き止めたい。お前も最後までめんどくさいやつだな。まだ時間は少し残っているから、考えてみたらいい。

 

私は自足するために生きたわけではない気がする。幸せになるために生まれてきたなんて信じられない。だって私が生まれてきたこと自体が私の意志からじゃないもの。気がついたら生まれてここにいただけ。じゃあ何のために?「答え:○○のため。」この○に入る答えなんかあるのか?唯一正解なんてものはないだろう。ただ私は納得のいく考えを得たいだけだ。しかし何をいれてもしっくりこない。生きる目的なんてはじめからなかったっていうこと・・・?そうなると私の人生ってなんだったのだ・・・?

 

ここまで考えると、目的のない生に、生きる意味・価値を見出すのが困難になる。まるで人生は死ぬまでのひまつぶしだったのか。フランクルは、人生には、創造価値、体験価値、態度価値の3つがあると言った(『それでも人生にイエスと言う』)。簡単に説明すると、前から順に、新しいモノや価値を創造することで実現する価値、愛すべきすべてのもの(人や動植物や景色や芸術作品など)に触れることで実現する価値、そして前者2つの価値が実現できない境遇(たとえば強制収容所)に陥ったとしても、与えられた状況下でどう振舞うか、運命が何をわれわれに期待しているかを、瞬間瞬間の態度によって示すことで実現する価値のことだ。

 

彼の答えでも納得できたような気がするが、そもそも生に意味を問うこと自体が不毛で、探しても見つからない類の問いなのだろうか。私はそうは思わない。生きる意味を見出すためには、ひとつの価値判断が必要なだけだ。残されたわずかな時間でなにをするのかを決める際、われわれは自分の人生において何が大事なのか、さまざまな選択肢を比較検討し、重きを置いたものを追求するのだ。それにしても人の意味に対する執着は大きい。


冒頭の3人の人生アドバイスに1点問題があるのは、彼らの言う通りに生きた場合、かなりの確率で「死なずにすむ」日が出てくるということだ。そうなると人は高確率で迎えるであろう将来を考慮に入れた行動をとらざるをえなくなり、そのために今日一日を満喫するための行動に制約が生じる。ルールを破ったり、貯金を一日で全額使い切ることができなくなるのが一例だ。



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現代は自由だが、私たちを迷わせもする。私たちはリスクヘッジが大好きで、あれもこれも欲しがって、あらゆる可能性をあきらめられない。特に「AかBか」という両者が対等な重要性を持っているように感じられる選択は簡単には決心がつかない。二つあるいはそれ以上の選択肢から決められず迷う。卒業後のキャリアを考える大学3年生は、院に行くか、ビジネスの世界に行くか迷う。ベンチャーに行くか、安定そうな大企業に行くか迷う。自分のやりたいことが出来そうな職場に行くか、とにかく稼げる会社を選ぶべきか迷う。ひょっとしたら自分はスポーツ選手になれるかもしれないし、学者になるかもしれないし、仕事でヒト山当てて大儲けするのかもしれない。 
行動経済学者のアリエリーは自身の書「Predictably Irrational」の中で、1941年にエーリッヒ・フロムが著した「自由からの逃走」を引用し、

 近代民主主義において、人々はめまいがするほど機会がありあまっていることに悩まされている。現代社会においてはまさにその通りだ。わたしたちは、やりたいことはなんでもやれるし、なりたいものにはなんでもなれると常に言い聞かされている。 

と言う。日本でも、テレビ番組で「人生は努力すれば必ず報われる、思いの力次第で成功できる」という精神論的なメッセージがよく発せられている。だが問題は、どうやって己の可能性を最大限に開拓した生き方をするかだ。「自分次第でなんでもできる」のなら、あらゆる分野に手をつけ、自らを成長させ、可能な限り人生の妙味全てを味わなければならないような気になってくる。(もちろん予算の制約はあるが、)美味しいと言われる食材・酒の銘柄は全てトライし、行ったことのない国は全て訪れ、「死ぬまえにみるべき10の名所」を制覇したかが大きな関心となる。 

アリエリーはMITの学生を対象にしたコンピューターゲームの実験で、たとえひとつ選んだ選択肢に固執・特化し、それに突き詰めることが最終的に最も儲けが大きくなることが明らかでも、被験者は取り分が少なくなってもできるだけ多くの選択肢を残そうとするという傾向を示した。経済的には、悩む時間は最小限にした方が、悩まずに済んだ時間を何か別のこと(例えば働いてお金を稼ぐこと)に使うことができるため、「合理的」だとしても、人間の行動はそうはならない。昼食のレストランで何を食べるかといった日常的な問題ならまだしも、自分の人生にとってより重要性が大きいように思える決断、例えば恋人の相手や、専攻あるいは職業の選択になればなおさらである。

 ある職業・専門で大成するためには、選択と集中、つまり一つのことに特化し突き詰めて、残りの道はあきらめることだとゲーテも言っている。アリエリーの研究の結論自体は新しくはなく、人間の優柔不断的傾向を改めて実験で確かめたくらいである。さらに彼はあまり有益な対処方を示していない。「私たちに必要なのは、いくつかの(可能性の)扉を意図的にとじなければならない」というが、それができなくて私たちは悩むのだ。経済学的には、悩むために払う機会費用と、ストレスを考えるとなるべく迅速に決めなければならないことは明らかだと言われても、私たちの感情は納得しない。コインの表か裏かで決めることについても彼は言及しているが、もってのほかである。感情との折り合いのつけかたについて彼は述べていない。人はAという道を選べば、Bをやればよかったと悔やみ、かといってBを選んでいれば、Aの方がによかったのではないかと悩んでしまう動物なのだ。 

岡本太郎は、シンプルな決め方を教えてくれる。彼は人生で選択に直面したら、危ない方、失敗しそうな方、自分にとってマイナスに見える方を選ぶという。危なそうに見える道こそ、自分の本当に生きたい、情熱の湧く道で、食うこと(食い扶持)だけを考えるならばあなたはハナっから迷わないはずだろと。食うことだけでは満足しないのが人間で、だからこそ迷うのだと彼は言う。選んだ道で結果が出ずに失敗しても、その方がおもしろいし、それこそが生きがいになるという。さらに、「挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままでオリてしまったやつには新しい人生などはない。ただただ成り行きにまかせてむなしい生涯を送るに違いないだろう。」とも。

 Aを選ぶとは、Bおよび他の選択肢全てを選ばないという決断をするということであり、決断にはある種のあきらめ(諦念)が必要だ。日々次々と新しい事態は起こり、すべてを知ってから決断をするというわけにもいかないので、不完全情報下の意思決定は必然となる。したがって、最善な決め方とは、設定した締め切りまで情報を集め、あらゆる角度からじっくりと選択肢を比較検討し、(そもそも本当に二者択一で、両立する道はないのか。お互いが好影響を及ぼし合うような相補性はないのかを探り、)その時点で妥当だと思われる決断をして、一度決断を下した後は迷わずその決断に従うことではないか。選ばなかった道を振り返らないことだ。「正しい」決断は、決断を下した瞬間以後の未来に、自らがした行い次第で実現されるということを理解することだ。選んだ選択肢を正しくすることに集中する。

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We got everything but they have everything we lost.”

(我々は全てを手に入れた。だが我々が失った全てを彼らは持っている)



この言葉は、タイの小さな農村で暮らす人々を見て、ある日本人が残したものだ。先進国として、日本が手に入れたものとはなんだろうか。一言で言うなら、人工技術に基づく便利さ(convenience)だと考える。高度に発展した経済、虫のいない快適な家、階層の高いビル群、舗装された道、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、インターネット、スマートフォン、車、など。食べ物は天候・収穫に左右されず安定して手に入り、飲み物は自販機でどこでも買え、人と会わなくてもSNSでコミュニケーションがとれ、家を出なくても買い物ができ、知りたい情報はネット上で検索すれば大概すぐに世界中から手に入るようになった。他方、途上国の多くでは、電気が通っていなかったり、移動手段はラクダか徒歩のみで、ココナッツの実の売買で経済が成り立っていたりする。では日本人が失った一方で、彼らが持っているものとはなにか。一言で言うと、自然との絶えざる接触・交流(interaction with nature)だと思う。森・山・川・海・土・動植物に囲まれ、季節・天気・収穫に大いに依存する生活。



 



(幸せは、比較し評価は出来ることを前提とすると、)では、彼らに比べて、現在の日本人は幸せだろうか、不幸なのだろうか。私の直感は幸せだと答える。なぜなら、人工技術に基づく便利さと、自然との絶えざる接触・交流からそれぞれもたらされる幸福感は、「質」が違うものだと感じるからだ。ちょうど目は、映るもの全てを見るが、美しいものや好ましいものを見たときにより充実感を覚え、空腹を満たすのに魚と豆腐が異なる味わいを感じさせるように、明らかに「感じかた」には質の区別があると考える。「胃袋に入れてしまえば何を食べても同じ」という言葉があるが、この言葉は、異なる食材、料理がそれぞれ違う味をもたらすという事実を無視している。もちろん風邪や花粉症になると花の匂いがわからなくなるように、感覚器官が不能で、情報としての物質を正しく感受できないために、様々な素材から異なる感覚を区別することが出来ないこともある。感じかたに質の区別がある以上は、満腹感、充実感、幸福感など同じ感覚を得るにも、それらの感情の源泉となる「材料」が重要になることがわかる。つまり、何を食べるか、どの音楽を聞くか、どの花を嗅ぐか、誰と楽しむか。とにかく食べれればなんでもいいというものではない。 



「幸せに質があり、比較ができる」と前提すると、次に浮かぶ疑問がある。TVドラマ半沢直樹を観た場合と、歌舞伎・シェイクスピアなどの作品を鑑賞した場合と、どちらが優れた幸福をもたらすかのかという謎だ。一見すると、多くの日本人が前者を面白おかしく楽しんだ一方、後者に触れて同じように心動かされる人は少ない。現代の人が古典と呼ばれる何世紀も前の作品を観る際の一番の障害は、言葉・文化・当時の生活についての情報の有無だ。しかし古くなければ「古典」とは呼ばれないように、古典作品は、ある種普遍的な価値を体現しているため、時代の評価・批判に耐え、これまで残ってきたことにこそ価値があるといわれる。歴史を知らない観光客が京都の寺社仏閣を見ても、建物の美しさ以外になんの感興も湧かないように、情報が事前に十分に与えられていないと、価値を十分に理解し評価し、効用を受け取ることが出来ない財・サービスがあると経済学はいう。いわゆる、豚に真珠、猫に小判の状態だ。おそらく情報は、ある材料を基に人間が、想像力・期待をするのに必要だ。例えば、「この寺は○○百年前のもので、当時の当時の天皇が国民の無病息災を願って建立した」とか、「このステーキは、牛一頭からわずか100gしか取れない部位をぜいたくに使用し、3日間タレに漬けこんで、その道一筋30年のプロの料理人が愛情を込めてつくりました」とか、「この絵はゴッホが描いた生前唯一の○○をモチーフにした作品で~云々」といった感じだ。経験や訓練によって獲得される情報もある。「審美眼」、「肥えた舌」、「聞き分ける耳」、という言葉が示すように、(質の)良いものに多く触れることで、感覚が研ぎ澄まされ、素人が正確には理解できないような美しさ・良さ・味などの価値を理解できるようになるという思想だ。

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だが、そもそも質の違うモノを比較し、上下優劣の区別をつける、なんてことができるのだろうか。りんごとみかんでは、どちらが優れているのだろうか。「リンゴの方がいい」と主張する人はいるだろうが、それは単なる個人の好みであって、「みかんの方がいい」と主張する人も多いであろう。「万人が一致して賛同する評価を以て、対象物に普遍的な価値が宿っている」と考えると、両者の優劣をつけることは出来ないことになる。それとも個人に選好の差が存在する以上、質の評価とはそのように個人によって結果がわかれてしまうものなのだろうか。この疑問に対する答えは出ていない。


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あなたの仕事の同僚である、ノビ・ノビタ(仮名)は「有能」か、それとも「無能」か。あなたならばどう判断(ジャッジ)するか。

問いに答える前に、まず「有能」の定義とは何か。能力がある、便利、(利用)価値がある、などだろう。無能はその反対となる。次にあなたは「どのように」ノビタを評価するか。彼の振る舞いや言動、態度、為した仕事の質・成果、組織への貢献具合などを参照するだろう。そして注意すべきは、「誰にとって」有能なのかという問い。その答えはもちろん「評価する者」にとってだ。評価者の属する組織にとって、という答えもあり得る。しかし、評価者が変われば為される評価も変わる。豚に真珠、猫に小判という諺が示すように、人は自分の知力が及ぶ範囲で、この世界、物事の「価値」を理解できるからだ。

さて、この人間世界では、様々な場面で、人は互いに評価し、評価し合って生きている。就活然り、恋愛も然り、企業などの組織内でも然り。人間が2人出会えば、お互いに受けた印象に基づいてなにかしらの評価をしていると言っても言い過ぎではない。ではあなたは評価者として、あなたの下す評価がどれほど妥当だと言い切れるだろうか。評価対象者の一面しか見ずに判断していないだろうか。先入観(バイアス)や個人的な好み、その場の一時的な感情などの要因を排し、適切に評価を行えているだろうか。余程の自信がない限り、評価の判断材料となる情報の不完全性に気付くだろう。A4一枚の書類や、15分間の面接、ミーティングでのわずかな言葉のやりとりで、1人の人間の全てを知ることができるとは思えない。1人の人間がある人を評価しようとすると、時間的制約や評価者の能力面でどうしても限界が生じてくる。

ここまでを確認すると、次のようなことが起こることがわかる。Aくんの眼にはノビタは、無能に映っている一方で、Bさんにとってはノビタが有能に見えている。AとBがのびたについてのお互いの評価について話し合いをしても、確信の程度にも依るが、元々単独でA、Bが下した評価が変わることはない。ノビタが能がある・ないの決定判断は、その評価を下す者の「評価力」に依存している。

評価力という聞きなれない単語を用いたが、評価する力とは、ノビタの中に「能力または価値」を“発見”する力のことである。発見という言葉がかなりミソである。発見とは、一見なにも「ない」ように見えるところから「ある」ものを見つけること。つまり無から有を創造することなのだ。のび太から何かしらの価値を見つけ出し、評価しようと試みる人は、おのずと積極的に彼の価値を探し続けなければならない。そこでは評価する側の人間の、価値を見出す眼力や知力、事柄に意味を与える力が問われている。これらの力をよく発揮する人にとっては、あらゆる人材が宝物に見える一方、積極的にノビタの能力を発見しようとしない者、欠点の粗探しばかりしてしまう者にとっては、ノビタは単なるでくのぼうになる。

以上から、評価される側が独立して能力・価値を内在している、というより本当は、
評価する側がこそ、人を有能にも無能にもするのではないか。

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