カテゴリ:世俗の思想家( 10 )

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資本主義の未来を予測する際にいま最も重要な思想家は、マルサスだ。彼は1798年の『人口論』で、人口が等比級数的に増えるのに対し、資源は等差級数的にしか増えないという法則を発見した経済学者だ。彼によると、経済成長が人口増を引き起こすと、その結果生まれる人口過剰は、利用できる食糧が養えるだけの人口にまで飢餓や疫病が調整するという。この予言がより破滅的な様相を帯びつつ、現実のものになりつつある。2011年に世界人口は70億人を突破し、今世紀中には100億人を超えると予想されている。いまや4日半ごとに世界全体で人口が100万人(10秒につき約25人!)増えているのだ。このスピードがどれほどのものかは、ホモサピエンスが初めて姿を現わしてから、1815年頃に世界人口が10億人に届くまでに、20万年近くかかったことを想起すれば十分だ。出生率は特に途上国で高い。増え続ける人口に対し、人々を養う資源の量は明らかに足りない。中国人がアメリカと同じように紙を消費すれば、3億500万トン消費することになり、地球上の森林は全て消えてしまうという。中国人がアメリカのように4人に3台の割合で車を所有しようとすると、毎日9900万バレルの石油を消費することになるが、現在世界全体の原油産出量は8400万バレルしかない。さらにこの産出量もいずれ減少することが予想されている。確認可採埋蔵量は減る傾向にある。産油国23か国中、14か国の油田ではすでに産油量のピークに達しているという。

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出典:国連人口基金東京事務所ホームページ


マルサスの時代は耕作可能な土地が減ることを心配したが、現代では他の生態系の脆弱性と人類との相互依存性、気候への影響、石油・石炭などの化石燃料、原発の燃料となるウラン、食糧・水など、さまざまな資源が枯渇する可能性にも向き合わなければならない。人口増加、すなわち人々の有限資源に対する需要の増加は、資源の需給を逼迫させる。1950~1960年の間にアメリカが消費した石油の量は、それ以前の人類史を通じての消費量より多かったという。それは、海面上昇やハリケーンなどの異常気象、生態系の絶滅、飢饉、疾患、資源戦争などによって調整されることになる。地球温暖化は干ばつを深刻化させ、アメリカのニュー・オリンズを水没させるような激しい暴風雨を引き起こした。ヨーロッパでは、2003年の猛暑で3万8000人が亡くなった。第三次中東戦争の原因は、ヨルダン川の水源を巡る争いが引き金だった。<供給が需要を決定する>というセイの法則がもはや成立しない現在では総需要が逆に供給を制約しているように、資源の賦存量が生存可能人口を制限するのだ。


生態系の人類との相互依存性について、どれだけ需給がひっ迫したら、破滅的調整が起きるのか、その決定的なラインが知りたいと思う人がいるかもしれない。どれだけの生態系が絶滅したら、人類を含めた他の生態系も道連れにするのだろうか、と。生態学では今のところ明確な指標はないという。ならば、生態系が失われること(最近では日本ではウナギやクジラの保護が問題になっている)を心配するのはやりすぎではないかと考える人がいるかもしれない。この批判に対し、ポール・エーリックは次の寓話で答えている。


“ある乗客が、自分の乗っている飛行機の翼から機械工がリヴェット(締め釘)をぽんぽん抜いているのに気づく。機械工によれば、「航空会社がそれらのリヴェットを高値で売る」のだという。肝をつぶした乗客に向かって、「しかしそれで問題ない」と彼は断言する。「数千本というリヴェットが使われているため、飛行機から何本かなくなってもどうということはない。実際、しばらくこうしてきたが、翼はまだ落ちていないのだ」と。”


自分がこの乗客だったとしたら、一本抜くことさえ正気の沙汰ではないはずだ。しかし地球という宇宙船の上では、人間はリヴェットをぽんぽん抜いており、その頻度はますます高くなっている、とエーリック夫妻は指摘する。このように安全を後回しして利益を第一に追求する姿勢は、資本主義下の企業活動において共通して観察される。原発、金融商品しかりである。安全を犠牲にすることをリスクプレミアムと呼んで取引さえしている。


需要が増えるなら、それに見合うだけの供給を増やせばいいと思う人がいるかもしれない。穀物の品種改良や、革新的技術開発のおかげで、これまでも人類は生産力を向上させてきたではないか、と。物理学者アルバート・バートレットは、わかりやすい例で供給を増やせばいいという考えの問題点を指摘している。


いま1分ごとに分裂するバクテリアをビンの容器の中に入れると、1時間後、ビンの容量はプランクトンで満杯になっていたとする。さて、どの時点でバクテリアはビンの半分までに増えたのだろう?答えは、実験開始から59分後だ。つまり、容量が一杯になる最後の1分前の時点では、まだ容量が半分しか埋まっていないわけだ。次に、もしあなたがバクテリアなら、実験を始めてからどの時点で、ビンのスペースがなくなりつつあることに気づけるだろうか?59分経過の時点でさえ、ビンはまだ全体の2分の1しか満たされてない。つまり全体の50%は空なのだから、分裂し続けることに懸念を感じないだろう。この話は、倍々ペースでバクテリアは増える場合、容量が満杯になる前に気付くことは、最後の最後まで難しいことを示している。では、もし最後の一分の間に、幸運なことに新たな棲みかとなる3本の空きビンを見つけたとしたら、プランクトンの将来は安泰だろうか。実際、倍々で増え続ける限り、もう2分経てばビン4本すべては一杯になってしまう!


このプランクトンの思想実験が示しているのは、石油や水や食糧など、資源の供給は、今のペースで増え続ける需要を賄いきることは不可能に近いということだ。たとえ新たな供給源を見出したとしても、それは新たな瓶を見つけるという一時しのぎに等しく、増えた分のブランクトンが消費を増やすので、資源はすぐにまた足りなくなるということだ。バクテリアがビンの中で生き続けるには、バクテリアが増えるペースを落とす、つまりバクテリアの数を減らすことで資源に対する需要を抑えるしかない。仮に人口増加率が抑制されても、一人当たりの資源消費量が増え続ければ意味がない。しかし需要が神聖視されてきた資本主義社会において、需要を抑制するという発想はこれまで提案はされても喜んで実践されることは稀だった。企業においては一層その傾向が大きかった。これは当然のことで、なぜなら財の生産者にしてみれば需要は拡大し続けることが自身の利潤最大化にあたって最も望ましいからだ。


解決策は、人口を抑制するか、人が消費する資源の量を減らすしかない。前者について、グレッチェン・デイリーとエーリックのおおざっぱな試算人類の持続可能な生存のために使用できる総エネルギーを年6TW(テラワット)と仮定すると、一人当たり年3kWのエネルギーを消費する場合、20億人が生存できることになる。によると、地球が収容するのに適正な世界人口は20億人程度だという。20億人とは1930年の地球の総人口に等しい。この数字は、中国でおなじみの一人っ子政策を全世界で100年続ければ容易に達成できるという。犬や猫のように人間を間引きしたり中絶することには、宗教上、倫理上の理由から受け入れられがたい現状では、避妊具の使用、パイプカットによる断種、または卵管結紮(けつさつ)などにより妊娠を防ぐことが現実的となる。しかしそれらの実行にさえ、多くの問題が存在する。人口問題の点からは、―多くの論者が問題視しているのに対し―、日本や先進国で進行する少子高齢化はむしろ望ましいといえる。にもかかわらず政府が移民を呼んでまで人口を維持しようとしているのは、労働力を維持し、経済成長し続けるためだ。


人口過剰に対処する際の問題の第一は、技術的楽観主義だ。これまでも人類はなんとか問題に対応してきたし、これからも一部の天才がなんとかしてくれるだろうから大丈夫だ、というものだ。この態度は根拠が薄く不合理としか言いようがないが、実際多くの人に見られる。正当な危機感を持つためには、無知から脱却し、現状の問題を正確に認識することが必要である。参考文献に挙げた『滅亡へのカウントダウン』を読む(タイトルだけでは、世界の終焉を煽るありがちな本かという印象を受けて終わってしまう)か否か、言い換えれば、本書の内容を知っているか知らないかで態度は変わる。


もう一つの問題は、国家間の合意形成が難しいことだ。国連のような場で話し合うと、途上国は先進国と同様の消費を要求し、アメリカのような先進国もこれまでのライフスタイルを変えることは嫌がる。どの国も持続的な経済成長の競争から降りたがらない。結果対策はいつも先送り、中身のないものになる。我々は運転手がブレーキをかけない暴走列車に乗っているようなものだ。


人類のエゴにより未然に人口過剰を軽減することができなければ、自然が代わりに人口を減らす。エコロジストはそれを未然に防ごうとしている。人間が人道的に人口を自制することに失敗すれば、自然が強引に調整するだけのことだ。人類の持続可能性を自力で達成するか、自然の乱暴な力に委ねるかのどちらが望ましいだろう。今生きている世代からすれば、前者なのは明らかではないか。


ケインズは、1930年に『孫たちの経済的可能性』の中で、「重要な戦争と顕著な人口増加がないと仮定すれば、およそ100年以内に経済的課題は解決されているであろう。生産力が順調に向上していけば、飢えを寄せ付けない物質的富がもたらされ、人間はほとんど労働をする必要はなくなり、余暇をどのように豊かに過ごすかということが人類にとっての最重要課題となる」と予言した。シュンペーターは「資本主義・社会主義・民主主義(1942)」で、資本主義の原動力であるイノベーションを担うべき企業家が、少子化と社会の官僚主義化によって消滅していくにつれ、資本主義は生き延びることが出来なくなると述べた。


ケインズ、シュンペーターを含め、人間のする予言はあまりあてにならないが、予言が社会に“警告する”という意義はある。悲観的なシミュレーションがもたらす不安は問題への関心と、事態を予防するための行動を喚起する。人類の存続に関わる問題を放置する被害の方が、その事実を知った不安でパニックになる被害よりよほど深刻だ。真に心配するべきは前者なのである。マルサスの時代から、この悲観的な論はいつも不人気であることが宿命づけられていた。子作りをしたいという生き物の(自然の?)欲求に反するからだろう。しかし、タブー視されてきたこの問題に切り込まなくてはならない。


主要参考文献

経済と人類の一万年史から、21世紀世界を考える ダニエル・コーエン(2013)作品社

資本主義の終焉と歴史の危機 水野和夫(2014) 集英社新書 

入門経済思想史 世俗の思想家たち ハイル・ブローナー(2001)ちくま学芸文庫

滅亡へのカウントダウン 上・下 アラン・ワイズマン(2013)早川書房


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ユートピア社会主義者たちの人生は、本人からすれば悲劇の物語だ。彼らは1820年代のイギリスやフランスで、労働者の悲惨な状況に心を痛め、私有財産の廃止や労働者の待遇改善を目指した。それは心からの善意の産物であったが、彼らの理想は挫折した。他人からみたらそれは喜劇になる。いくら無限の善意、義憤に駆られて「正しい」ことを主張し行為しても、結果が伴わなければ笑い者になってしまうからだ。ただ、彼らが望んだ世界は共感できる。一見それは決して実現できないユートピアにみえるかもしれないが、ゲーテが言うように、可能なものの限界を測ることは誰にもできない。だから、常識で判断して無理に思える世界だって、実はつくれるという可能性は否定できない。本章中の3人はただ、常人の限界を超え、遠くまで想像力の羽根を広げただけなのだ。いつの日か、フェルマーの最終定理が出題されてから 356 年間、何人もの数学者が挫折しながらも手掛かりを残し、最終的にアンドリュー・ワイルズが解いたように、彼らが夢想したユートピアが地上に出現する日が来るかもしれない。

だから彼らの生きた様は、分析してみる価値がある。彼らの足跡から何かを学びとらなければ、魂が浮かばれない。彼らに足りなかったものは何だろうか。常人離れした野心に、人々がついていけなかったのだろうか。部分的にはそうだろうが、人望がなかったわけではない。ロバート・オーウェンは政府から 9 万6000 ポンドを調達し、アメリカで 3 万エーカーの土地を調達し、インディアナ州で 800 人もの移住者を動員した。彼は 50 万人もの労働組合をも組織することに成功した。サン・シモンは臨終前に自身を教祖とする宗教をつくり、フランス、ドイツやイギリスで信者を持った。非常に空想的で奇人のフーリエさえ、アメリカに 40 以上の生活共同体をつくることができた。

ではなぜ彼らの崇高な理想は実現しなかったのか。ハイル・ブローナーによれば、ユートピア社会主義者は、人々の意識に染みついている習慣の力に及ばなかったこと、ユートピア社会主義者が描いたようには人間たち(の欲)を制御することができなかったこと、既存の秩序を壊れることを恐れる集団がいたこと、理想世界への移行のための具体的な計画がなかったこと、などが指摘されている。しかし何より難しかったのは、『経済法則は、重力のような自然法則と同様、人間がどうこうできるものではない』という通念からの脱却だろう。そのような通念ゆえに、当時ほとんどの人は、下層階級の貧困と堕落と暴走は、天候が人間の思い通りにはならないのと同じくらい、不可避で当然のものだと信じていた。

その通念を壊したのが J.S.ミルだ。彼は経済法則がモノを言うのは「生産」が中心なのに対し、「分配」の局面では、社会のルール次第で、人間が好きなように処分できると喝破した。この指摘がのちの経済学の一派を悩ませる「どう分配するのが公平で望ましいのか」という問いを生むことになる。しかしミルは当時の資本主義を観察し、それが封建制の過去に引きずられて運営されているせいで本来の力を発揮していないと観て取り、その上で共産主義よりも、問題を改善した上で現状の経済システムを選ぶことの方が社会にとって望ましいという価値判断を下した。

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世俗の思想家 第5章


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ヴェブレンによれば、ポリネシアン人、古代アイスランド人、日本の封建時代の将軍統治下では、侵略好きな掠奪者は、社会の十分な承認のもとに褒め称えられたという。さらに、有閑階級にのし上がった人たちは、浪費者とか掠奪者とみなされるどころか、強者であり有能な者として尊敬されたらしい。その結果、たんなる労働、まじめに生産する労働者は軽蔑され、暴力による富の獲得が名誉ある高貴なこととみなされることになった、と彼は主張する。この価値観は現代の日本人の間ではあまりあてはまらないのではないか。むしろコツコツ努力することが美徳とされ、まじめに汗を流して働く人が、報われるべき社会が理想とされている。ホリエモンはバッシングを受けたし、投機をあてこんで金融商品で儲けようとするような人はいくら有閑階級でもむしろ蔑視され得る。無論彼らにもヴェブレンが指摘した野蛮人と共通の傾向、例えばブランドや高級品(車、服、宝石など)を身につけたり、ネット上で自分の功績を投稿して広く知らしめたいといった自己顕示欲求、虚栄心、見栄などは依然として存在する。

本章冒頭で描かれている、資本主義華やかなりし19世紀後半頃のアメリカ人が、金儲けのための行為はとにかくすさまじい。法律の無視、機関車同士の衝突、線路の引きはがし、乱闘、ダイナマイト、詐欺、そして誘拐。ゲーム理論では、競争相手と複数回ゲームをする場合は、1回目であからさまに相手を裏切って短期的な利潤追求をすれば、将来相手からもしっぺ返しをくうので、代わりに相手と協力することを選択するというが、当時のアメリカ人にそんな様子はあまり見られなかったようだ。

しかし彼らの蛮行も、世界史的な観点から眺めると理解できる。彼らの極端な利益追求の姿勢は、イギリスで支配的だった、階級社会からの解放によって、その反動として起こったのだ。それまでの階級社会では、商人がどれだけ財をなしても身分上の貴族と対等に肩を並べることは出来なかった。 「無能上司の存在」によって どれだけ人間が悔しい思いをするかは、枚挙に事欠かない。福澤諭吉は中津の封建的な門閥制度がいやで故郷を出たし、マックスウェーバーも「職業としての学問」で、凡庸な連中が年々君を追い越して昇進していくのをみても、腹を立てず、くさらずにいられるのは難しいと言った。

人間は自分の実力にふさわしい地位を望む。だから個人の功績を重んじる国が現れれば、そこでは人があらゆる手段で金もうけに走るのは当然だろう。富の有無が即ち能力の証明であり、社会に認められるためのパスポートになるのだから。アメリカはそういう場所だった。人々はやっと自由になり、ちょうど綱を放された犬が走り出すように、なりふり構わずビジネスに没頭した。一度富の獲得が至上の目的になってしまえば、あらゆる手段は正当化される。窮鼠猫を噛むというが、人は追い詰められれば、盗みでも殺しでも戦争でもなんでもやってのける。ルールを守っていたら、守らない奴に競争で負けてしまうとしたら、誰がそれを守るだろう。勝負に勝って生き残ることがなにより最優先なのだ。
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単純作業はつまらない。アダム・スミスは分業の利点が『人民の最下層まで行きわたる社会全般の豊かさをもたらす』ことにあると発見した。たしかに、「国富論」の冒頭にあるピン工場の描写が示すように、分業によってヒトは量的な生産性の向上を達成することができる。だが分業は必然的に大量の単純作業を生みだす。「モダン・タイムス」でチャップリンが演じていた労働者のシーンを想起するまでもなく、単純な作業を繰り返しやらされることでヒトは消耗してしまうのは明らかだ。なにかしらの工夫の余地、創造性の発揮、遊びの要素、やる意味を見いだせない作業をヒトは好まない。小学校では掃除の時間に真面目に掃除をする人は少数で、ふざけて遊ぶ子どもが多かったはずだ。皿洗いだって数日やらされるともう飽きてしまう。飽きた先にあるのは退屈と苦痛である。むしろ人間は複雑な作業、難しい問題を欲し、それに打ち込むことに喜びを感じる。「人間の建設」で小林秀雄も、『むずかしければむずかしいほど面白い』という。しかし生活の資を稼ぐために、われわれは単純作業から逃げられない。

アダム・スミス自身もそれに気づいていた。

“おおかたの人間の理解力というものは、かれらが従っている日常の仕事によって必然的に形成される。その全生涯を、少数の単純な作業、しかも作業の結果もまた、おそらくいつも同じか、ほとんど同じといった作業をやることに費やす人は、さまざまの困難を取り除く手だてを見つけようと、努めて理解力を働かせたり工夫を凝らしたりする機会がない。…こういうわけで、かれは自然にこうした努力をする習慣を失い、たいていは神の作り給うた人間としてなり下がれるかぎり愚かになり、無知になる。その精神が麻痺してしまうため、理性的な会話を味わったり、その仲間に加わったりすることが寛大で高尚な、あるいはやさしい感情をなにひとつ抱くこともできなくなり、結局、私生活のうえでの日常の義務についてさえ、多くの場合、なにもまともな判断が下せなくなってしまう。自分の国の重大で広範な利害についても、まったく判断が立たない。”このように、分業は世事に疎い者たち、つまり合理的無知な大衆の形成にも一役買っている。

「私利の追求」と「競争」をエンジンに動く社会の悲劇は、「社会全体の福祉の増大」のために、個々の人間がいびつな成長を遂げてしまうことにある。国富論を読んでいたかはわからないが、夏目漱石もそれに気づいていた。「私の個人主義」の中の「道楽と職業」で彼は以下のように述べている。


“私の見るところによると職業の分化錯綜(さくそう)から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々片輪(かたわ)な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売がしだいに専門的(かたむ)いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三乃至(ないし)四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事皆目(かいもく)分らなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、あたかも自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者打崩(うちくず)しつつ進むのだと評しても差支ないのであります

(ごく)の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身(まと)うものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき点において、また生活上の知識をいっさい自分に備えたる点において完全な人間と云わなければなりますまい。

ところが今の社会では人のお世話にならないで、一人前に暮らしているものはどこをどう尋ねたって一人もない。この意味からして皆不完全なものばかりである。のみならず自分の専門は、日に月に、年には無論のこと、ただ狭く細くなって行きさえすればそれですむのである。ちょうど(はり)掘抜(ほりぬき)井戸を作るとでも形容してしかるべき有様になって行くばかりです” 食うためにはこのことにも耐えなければならない。

大量生産・消費社会のもう一つの悲劇は、ひとりひとりの人間は世界中の他人の分業に助けられているにもかかわらず、そのことに想像力が及ぶことは少なく、人間同士の争いはなくならないということだ。「君たちはどう生きるか」で吉野源三郎が登場人物に言わせていることだが、粉ミルクという財を生産するにも、オーストラリアの羊が出した乳が、リレーのように様々な人の分業を経て私の手元に来ている。しかしあまりに生産関係が大規模・複雑になったせいで、労働者は自分たちの食べる物や着る物を見ても、いったい誰がこのために働いたのかわからなくなってしまった。結果その製品の生産に対する感謝の念は薄れた。「Made in China」というラベルからは、それが作られた国しかわからない。しかし実際日本人と中国人は相互に依存しあっている。この2国だけでなく、見たことも会ったことのない世界中の人が、網目のようにつながって支え合っている。もちろんすべての人と知りあうことは時間的にも空間的にも困難だが、支え合っている人同士が相変わらず赤の他人でい続け、憎み合ったりすることは奇妙なことである。

こんにちのように物にあふれたゆたかな社会を作り上げるために、人間が払っている犠牲はけっこうデカい。


Mr.Children「彩り」Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=Qg8-a4xq_o8


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現代はイノベーションの時代だ。シュンペーターが生んだこの思想は、彼の死後、日本で思わぬブームをもたらしている。「イノベーションを起こした起業家(企業)を見習え!まだ誰もやってないことに気づけ!そしてイノベーションを起こせ!」そんな風潮である。最近はビジネスマンだけでなく、学生にさえイノベーションを起こすことを期待されているのを感じる。「いま企業は、グローバルに活躍(他国企業との競争に勝ち利潤を上げて成長)できる、リーダーシップを持ちイノベーションを起こすことのできる人材を学生に求めている」といったことをしばしば就活系イベントや会社説明会で聞く。そのような能力を要求する根拠は、イノベーションが利潤を社会に、そして企業にもたらすからだ。利潤の在りかを説明するものだったイノベーションは、現代ではシュンペーターの思惑を超えて普及している。

本日TVで茂木健一郎を観た。脳科学者の彼も、自覚してかしないか隠れシュンペーター支持者である。ポストイットを発明した会社のエピソード、ネットショッピングを創始し買い物の在り方を変えたAmazonの例、スマートフォンを創り出したAppleの例などを出し、イノベーションを讃美し、それを起こせるようになることを大学生に熱心に勧める。直感力を普段から鍛えていれば、イノベーションが起こしやすいという説を主張し、ヤンキーのように無謀の挑戦をしたり、知人よりも初対面の人と会う機会を増やすことで、セレンディピティ(発明・発見)が起きやすくなるという。

しかし彼の主張に賛同した日本の若者が、一生懸命イノベーションを起こそうと励む姿を想像すると、なぜか滑稽に思えてしまう。イノべーションはシュンペーターが言うように、革新者の意思や才覚から湧き起こるが、「他の資本家が創始者の仕掛けを学ぶやいなや消失してしまう」という儚い性質のものだ。つまり一度のイノベーションで生まれる利潤は永続しない。一生に一度イノベーションを起こせば、革新者の生活は安泰なわけでもない。だがイノベーションが絶えることなく次々と生まれる国づくりもありなのかもしれない。イノベーション産業立国。

世俗の思想家 第10章
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人間という漁師は、世界という海を解釈し、理解し、説明するために、懸命に仮説という網を投げてきた。経済学者に留まらず、科学者、哲学者、経済学者、心理学者、人類学者など様々な人間が網を投げ続けている。この試みは、人が思想家であることを辞めるまでこれからも止むことがないだろう。

しかし、これまで投げられたどんな網も世界を丸ごと掬うことは出来ておらず、おそらくこれからも出来ないだろう。仮に何かしらの魚をすくうことが出来た(世界を支配する法則の発見に成功した)と思ったとしても、それは人間が仮定に仮定を重ね、様々な世界の多面性・多様性を排除した上で、ある一面を説明できたにすぎない。詮ずるところ人が理解できる世界の範囲はかなり限定されている。知識のうち大半は「知っている」ことではなく、「信じている」に過ぎない。人間が世界を理解する際に、事柄を普遍化・単純化する過程で、必然的にある種の魚はこぼれ落ちてしまう。ひとつの理論では説明できない側面が発見されるからだ。時間が進む限り、人の行動も社会の仕組みも変化を続けるので、我々はいたちごっこを続けるように宿命づけられている。真実という魚をなんとか手に入れたと思っても、気がつくとそれはいつの間にか化石になってしまう。

にもかかわらず、なぜ人は不毛にも見える試みを繰り返すのだろうか。「わかった」つもりになったときに感じる純粋な喜びゆえか。世界を思う通りにコントロールできるのではないかという淡い期待が満たされるからだろうか。それゆえ人間は昔から、万物は火であるとか、数であるとか、原子であるとか、随分思い切った割り切り発言をしてきた。万物は、流転する。これが一番はずれることが少ない表現だと思う。

だから我々は「わずかなポイントを押さえれば、だれでもすぐに簡単にわかる」という類の理論には注意しなければならない。特に数式と複雑な数学で人間の行動が説明しきれるとは思いこまない方がいい。単純化された理論には、人間の血の通った多様な側面、特に非合理的な面は往々にして無視されているからだ。


原題:数理経済学派からみえる人間の思想のジレンマについて

世俗の思想家 第7章を読んで
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がるぶれいすは、人間について数々の洞察を与えてくれた。

・歴史は輪廻のように繰り返される。人間は失敗から学べない。すべての記憶は徐々に薄れてしまい、ついには忘れさられてしまうからだ。金融の世界がその最たる例で、ガルブレイスの分析によると、20年を周期に投機の盛り上がりと崩壊が手を変え品を変え、繰り返されてきたという。リーマンショックもそのうちのひとつだ。人間の脳は情報・経験を長期に渡って保持するのには向かないが、代わりに人類は紙に書き、記録するという画期的な技を編み出した。記録者が死んでも紙自体は保存されるし、紙に記録された文字は、口伝よりも正確に情報を伝達する。これにより世代を超えて人類の知恵は受け継がれ、蓄積されることになり、文明は急速に進歩してきた。

古典を読む意義はここにある。古い本を何冊も読んでいると、どこかで読んだような一文・主張に出会うことがよくある。例えば徒然草の一節と、スティーブ・ジョブスのスピーチの内容にはかなり共通している箇所がある。そのような情報は、よく覚えておく価値がある。同じような人間の性質や行動は、時代を経ても繰り返されることが多いからだ。ガルブレイスが指摘するように、過去に似たような事が起きたことを知り、再び同様の事件が起きようとしていることを知った者だけが、その禍に巻き込まれずに行動することが出来るようになるからだ。



・人間はすぐに因果関係を認めずにはいられないが、その習性によってしばしば誤解が起きる。何か新たな現象に出会う度に人は「なぜ○○なのか?」という問いを発する。人間は原因を特定しなくては気がすまないのだ。それゆえに「偉いから褒められる」のではなく、「褒められているから偉い」に違いないと勘違いしてしまうことになる。持つ金が多ければ多いほど、その成功の土台となった知性も優れていると思いこむ。巨額の金を動かしている人を見ると、 動かす人の頭脳も偉大に違いないと信じ込んでしまう。

「なぜ起きた?」というポジティブで解明的な問いは、一応の”答え”を見つけるのには役立つ。例えば、「なぜ私はフラれたのか?」「なぜ私は面接に受かったのか?」などである。ただしそこで自分なりに出した「答え」はあくまで仮説であり、間違っている可能性が常にあると覚悟しておいた方が良い。人は簡単に目の前の現象に因果を見出すが、真の原因はしばしば本人の「答え」とは別のところにあるからだ。フラれたのは自分に魅力がなかったのが原因ではなく、相手に浮気相手がいたのかもしれない。面接に受かったのは、面接官での発言が高評価だったからではなく、単に面接官が恣意的に容姿・気分で選んでいた可能性もある。このように、真の原因は無数に想定でき、それを特定するのは非常に困難だ。物事を分析する際には、いつも一直線上に連なる因果を想定するのでなく、第2、第3の可能性を念頭に置きたい。


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1. 人は不確定な未来を予測してやまない。朝はテレビで自分の星座の運勢を確認し、駅地下では手相を診てもらい、寺に行けばおみくじを引く。昨日も電車内の広告で、「2052」という題の本を見た。さすが人類史上2番目に出来た職業と言われるだけあって、占いという行為には常に一定の需要があるようだ。幸か不幸か、予測が的中することはめったにないが。マルサスは、幾何級数的に増加する人口が、食料の増加率を大きく上回り、人類に飢餓が起こるのではないかと予測し、未来を恐れた。しかし現代では皮肉なことに、出生率が低すぎ人口減少を恐れる、日本のような先進国が相次いでいる。彼の悲観的な未来予想は外れた。


2. リカードとマルサスの間に、理想的な人間関係をみた。リカードは人生を終える年に、マルサス宛ての最後の手紙に、以下の言葉を送ったという。

「他の論争家たちと同じように、我々は多くの討論を重ねた後もそれぞれ自分の意見を保持し続けています。しかしこれらの討論は、われわれの友情にけっして影響を与えるものではありません。もし貴下が私の意見に同意してくださったとしても、貴下に対して現在以上の好意を持つことはないでしょう」

彼らは友人と形容するには親しすぎる。文字通り「親友」であり、同時に宿敵であったのだろう。だが、異なる意見を持つ者と、親友になることは可能なのだろうか。相手が「何を考え、どんな意見を持っているか、そして何を言うか」、それらが友情に全く影響しないというのは、私には俄かには信じがたい。普段人は、共感してくれる人を好きになる傾向があると思う。自分の意見を支持してくれる人は「味方」だと認識する。逆に、自分の意見に対して反対ばかりしてくる人には、あまりいい印象は持たないはずだ。ゆえにコミュニケーションに関する本の多くでは、人と打ち解けるコツとして、「話者に同意していることを示す」ことがよく勧められている。

ではマルサスとリカードは、なぜ親友になり得たか。みなさんはどう思うか。

私は、両者が徹底的に対話した果てに、2つのことが起きたからだと予想する。一つ目は、どちらの側の主張にも一定の筋が通っており、一方がもう一方の主張を諦めさせることは不可能だと悟ったことである。もう一つは、たとえ相手が自分と正反対の意見を持っていようが、彼の業績を純粋に評価し、尊敬することができたことだ。ひょっとすると、どちらが正しいかすらわからなくなってしまい、その上で相手を、共に真実を探求する同志のように思い始めたのかもしれない。


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よみかけ ブックレビューⅣ 
世俗の思想家たち 第4章
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よみかけ ブックレビューⅢ 世俗の思想家たち 第6章

今月から日本料理屋でアルバイトを始めた私には、「資本を持たない労働者は、賃金と引き換えに自身の労働力を資本家に売り、剰余価値を生み出す」というマルクスのアイデアは非常にタイムリーに感じられた。私の働いている店の経営者(資本家)が、閉店後いつもその日の売り上げを数え、利潤を計算しては一喜一憂しているのを思い出した。

ドイツという国は、歴史上本当に多くの天才を輩出しており驚かされる。かんとといい、しょうぺんはうえるといい、げえてといい、にーちぇといい、まるくすといい、あいんしゅたいんといい、哲学・経済・科学の様々な分野で、尊敬すべき業績をなした偉大な人物を生んでいる。ハイルブローナーによると、マルクスは「情熱的な几帳面さ」を持った、ステレオタイプ的なドイツ人の性格を持っていたようだ。その頑固じみた徹底的な思索気質が、ひょっとすると偉人に共通する特徴なのかもしれない。

同世代の人と議論していると、よく「それは、いろんな場合があるから一概には言えないよね」とか、「人によって答えはちがうんじゃない?」とか、「時代や文化によって違うよ」といった相対論に出会うことがしばしばある。

その指摘自体は間違っていないと思うが、そう言われると、それ以上事柄について分析を深めていくことができなくなってしまう。ひょっとしたら上に挙げたドイツ人達は、そういったケースバイケース論に逃げ込まず、その「情熱的な几帳面さ」でもって、どこまでも事柄の普遍性を掴んで考え続けることができたのではないか。相対論に陥って思考停止せず、物事をどこまでも考えていくマルクスの姿勢が、資本主義に固有の傾向と、そこに内在する運動法則を彼に発見させ、現代でも十分通用する法則の提唱者になれたのだと思う。

しかし彼でさえも万能ではない。マルクスは各国の社会・政治的文化の多様性を配慮することはできなかった、と著者によって指摘されているが、それはマルクス自身の性格、不寛容さと重なる。彼は生前自らを正しいと信じて疑わず、異論は認めなかったという。自ら思索を突き詰め、かなり普遍的な分析をした彼だが、多様な世界を包括して説明しきることは彼にもできなかった。
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顔がでかくてすいません



よみかけ ブックレビュー 其の弐 世俗の思想家たち 第9章

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ケインズの章を読み、人類という種に対する信頼感が生まれた。仮に私が今日何らかの原因で死んだとしても、きっと他の誰かが今後も世界をリードしてくれるだろう、そんな風に思うようになった。これまでの歴史がそれを証明している。ケインズのような天才は将来も不意にどこからか現れ、大抵の者が解けずにウンウンうなっている目の前で、無理難題を鮮やかに解決していくのだろう。彼のような天才は滅多に現れるものでもないし、大多数の人間は普通・凡であるが、それでも花開く可能性を持った者は数多くいる。

これまで私はかなりうぬぼれていた。「自分以外に○○をやれる者はいないだろう、だから私は○○をしなくてはならない」、などと考え、漠然と使命感を持っていたこともあった。だが多くの本を読み、さらにこの本に出てくるような思想家達の存在を知るにつれ、必ずしも自分がやるべきこと、自分しかやることができないことはそう多くないかもしれないと悟った。「自分が」やることの必然性が揺らいだ。もちろん自分も彼らのような偉大なことを為せる人物になりたい、という気持ちは以前と変わらずあるが、もし自分が道半ばで倒れても、他の誰かが代わりに引き継いでくれるのではないか。『まるで半ダースもの人の才能が、幸運な偶然によって一人の人間に押し込められていた』ケインズという人間の存在によって、他人一般に対する期待感を私は持つようになった。自意識によって引き起こされる功名心にはやる気持ちを、いい意味で落ち着かせてくれた。秘かに思い慕っているいるあの娘も、私でなくても他の誰かがきっと幸せにしてくれるだろう、などと言ったら、そんな男は頼もしくない!情けない!愛が足りない!と女性は軽蔑するだろうか。

(ただし世の中の人が皆私と同じ考えを抱いてしまうと、全員が他人任せのぐうたらで非生産的な社会になってしまうので、よい子は真似をしない方がいいと思います。何かをやってやろう、という燃えたぎる情熱は日々の活力になりますから。)

注目に値するのは、ケインズが支持した不況脱出の解決策である大規模な政府支出を、当時の人々はイデオロギー的に不穏だとして受け入れなかったことだ。好きか嫌いかで政策を判断するという人々の傾向は現代でも残っている。従来の方法と異なる”新しい“ことは、常に反発と不理解を生んでしまうのは、変化を恐れる人間の本性ゆえに必然なのかもしれない。

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