現在の有権者は多忙なだけでなく、公共政策について合理的に無知な状態に陥っている。合理的無知については、権丈(2001:32)が以下のように説明する。『ダウンズが考案し、<政治の経済学>の世界では普通に用いられる用語である<〔有権者の〕合理的無知>という概念は、(中略)野菜や果物の値段や、パソコンの価格を調べたり、すてきなデート・スポットを探したりというような日々の生活に有益な情報を得るために費やす時間やお金(コスト)を、公共政策をしっかりと評価するために要する時間やお金にはとてもなれないという<合理的な選択の結果としての無知>である。(中略)もし、経済学が仮定するように、人びとは合理的経済人として行動するのであれば、多くの人が、合理的無知を選択することは、かなり当然のこととなる。仮に、日々の生活に有益な情報を得るのに費やしている時間やお金を犠牲にして、政策を評価するために、新聞の政治経済面や専門雑誌を毎日数時間読んだり、休日は図書館にこもったりするような生活をしたとしよう。ところが、選挙の際の彼の1票の重みは、投票した人たちのなかの1票分にすぎないのであるから、政策評価から得られる期待便益は、かぎりなく小さなものになる。そうであるのに、必ず見返りが見込める日々の生活情報を得るための時間やお金を、公共政策を理解するために費やす人というのは、政治がとても好きというような趣味をもっているような人にかぎられることは、十分に予測できるのである。』『したがって、国民のほとんどが、実は何も知らない状況の下で、何事も選挙で決める民主主義が運営されていることになる。』図2は、一票の重みがかつては智徳度の高い人ほど高かった(それだけ尊重されていた)が、徐々に政治的な意思決定における一票の重みが、名目的には智徳度にかかわらず誰にでも平等にウエイト付けされるようになったことを示している。

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慶應義塾大学通信教育部入学式特別講演(4月29日)「”この人民ありてこの政治あるなり”の今日的な意味合い」『三色旗』2010年8月号http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/tushin_nyugakushiki1.pdf p29より引用

もちろん実質的には、智徳度の高い人は今でも一定以上の影響力をもってはいる。しかし現代では、同時に、智徳度の低い一部の層が圧倒的に大きな政治力をもっている(図3)。彼らはマスコミと、マスコミを通して自集団にとって利益になることを宣伝する能力を持つ利益集団である。利益集団とは、メンバーが特定の政策によって共通した利害をもつ、組織化されたグループと定義され、たとえば経団連、電気事業連合会、全国医師会、農協などがあげられる。権丈(2009)の言葉を借りると、「民主主義社会においては、有権者の耳目まで情報を運ぶコストを負担できる者が多数決という決定のあり方を支配できる権力を持つのであり、有権者の耳目まで情報を伝達するコストの負担は財力に強く依存している。財力を持つ集団は経済界であるから、民主主義というのは、経済界が権力を持ちやすく、そこでなされる政策形成は経済界に有利な方向にバイアスを持つことになる」というものだ。

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慶應義塾大学通信教育部入学式特別講演(4月29日)「”この人民ありてこの政治あるなり”の今日的な意味合い」『三色旗』2010年8月号http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/tushin_nyugakushiki1.pdf p29より引用

そのような状況下で、政治家はいかなる行動をとるだろうか。得票率の最大化を実現するために彼らは選挙戦略を決定すると仮定すると、「何も知らない合理的無知な投票者に正しいことを説得することによって権力の地位を狙う」だろうか、それともその「努力を放棄して、(あるいは無知や誤解の度合いを増幅させて)、無知なままの投票者に票田を求めるだろうか。」現実では後者の戦略をとる政治家が多いようにみえる。後者はポピュリズムにつながる。権丈(2010)の以下のグラフがそれを示している。

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慶應義塾大学通信教育部入学式特別講演(4月29日)「”この人民ありてこの政治あるなり”の今日的な意味合い」『三色旗』2010年8月号http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/tushin_nyugakushiki1.pdf p29より引用

政策領域の専門性が高くなればなるほど、政策を正しく理解している投票者の数は減る。このとき政治家は、多数の無知な有権者にターゲットを絞り、実現可能性を度外視さえしながら、耳には心地よいマニュフェストを主張することで、(費用対効果の面で)効果的に支持を集めることができる。たとえば、「増税しなくても埋蔵金をつかえば財政はまかなっていけるんです!」とか、「年金を積み立て方式に改革すれば年金制度は破綻しないのです!」とか、「私が当選したあかつきには、アベノミクスでデフレから経済を脱却してみせます!」など。政治家が有権者に正しい情報を提供することを放棄し、さらに有権者は合理的無知により自ら公共政策について勉強しないというこの状況下では、彼らは無知のままで居続ける。このとき、彼らのキャンペーンは効果的に機能し、利益集団寄りの政策が実現する。権丈は「民主主義というのは、われわれがしっかりと意識的に管理しなければ、組織化された利益集団が、未組織な有権者から思いのままに所得を奪うことができる政治システムである。(権丈2001:21)」と結論づける。

この構造の解決をはかるためには、アカデミズムにいる研究者が先導者の一端を担うことが期待される。彼らが多忙で合理的無知な社会人を「啓蒙」することで情報を提供し、民主主義がポピュリズム化しないようにする必要がある(この啓蒙という言葉には、上から目線のエリート主義的ニュアンスは含まれていないことに注意されたし)。研究者が民主主義の理念にしたがって社会的課題の解決を図るならば、多数の有権者にはたらきかけねばならない場面に直面するだろう。同業者のみを相手に狭い世界で学術研究に没頭するのでない限り、自分の研究を専門外の人々に早晩説かなければならない。
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# by healthykouta | 2015-07-15 18:34 | 読書 | Comments(0)
社会科学という学問の目的とはなにか。「社会心理学講義」を書いた小坂井(2013:392)によると、『文科系の学問は、己を知るための手段です。あなたを取り巻く社会の仕組み、あなたがどのように生きているのかを知る行為に過ぎません。(中略)研究のレベルなど、どうでもよい。どうせ人文・社会科学を勉強しても世界の問題は解決しません。自分が少しでも納得するために我々は考える。それ以外のことは誰にもできません。社会を少しでも良くしたい、人々の幸せに貢献したいから哲学を学ぶ、社会学や心理学を研究すると言う人がいます。正気なのかと私は思います。そんな素朴な無知や傲慢あるいは偽善が私には信じられません。』つまり彼にとって人文・社会科学の学問は、知るための手段でしかない。研究者が自己満足さえできればいいというわけだ。なぜ小坂井がそのように考えるか知りたいところであるが、それは本文の趣旨から外れるので、以下で考察はしない。

しかし学問の目的は、真理に近づくという1つだけではないと私は考える。もうひとつの目的は、小坂井も言及している、社会にある問題を解決することによって、「世界を良くする」というものだ。京都大学の学術研究着想コンテストの応募分類にも、「学術研究志向」だけでなく、「社会的課題志向」 。がある。以下ではこの両単語を用いる。

「学術研究志向」の意味については、法隆寺は仏法鎮護のためだけでなく、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたと主張する梅原猛『隠された十字架――法隆寺論』の中によく記述された部分があるので引用する。『一般に学問において、真理とは何であるかを、一言説明しておく必要があろう。それはもっとも簡単で、もっとも明晰な前提でもって、もっとも多くの事実を説明する仮説と考えて差し支えないであろう。私の法隆寺に関する仮説が、たとえどんなに簡単であり、それによって、今までの理論によって説明されなかった法隆寺の謎が、どんなに明らかに説明されたとしても、それは絶対の真理性を主張するわけにはゆかないであろう。他日、私の仮説以上に簡単であり、私の仮説以上に、明らかに法隆寺に関する多くの謎を証明する仮説がたてられたら、私の仮説はその真理性の位置をゆずらねばならぬであろう。』つまり梅原によれば、理論の価値は現実世界の説明力の有無に依存するということになる。

ではその説明力はいかに測られるか。文章作成者以外の当世の読者によって検討される。つまり学問上の真理はその時代の読者(学者)のコンセンサスに依存する。したがって、真理を解き明かした!と思う研究者は、他人へもそれがわかるように書かねばならない。さもないとその研究意義は社会に認められず、独りよがりのものになる。勿論どんなに書き手が十全に書ききったとしても、あまりに斬新・複雑・高度・難解な内容ゆえに現世の読者に受け入れられない可能性はある。古典となるべき著作を書いたマルクスやニーチェなどはしばしばそのような運命を辿った。

他方で、「社会的課題志向」とは、名の示す通り、社会の課題を分析・解決を目指す学問である。学術研究が「真」の解明を求めるならば、社会的課題志向は「善」の実現に関心がある。小坂井は明らかに「学術研究」を重視しているが、もちろん彼も「法学・語学・経営学などの実学を除けば(中略)(p.41)」というふうに、社会的課題解決志向を持った実学の存在は認めている。この実学に小坂井は含めていないが、経済学は明らかに含まれる。経済学が評価し、是非についての判断を下す公共政策というものは、人々の生活にダイレクトに影響を与えるからだ。実際、少なくとも日本・アメリカでは多くの経済学者が政府の委員会に選出され、政策の策定過程に関わっている。事実誤認に基づいた政策は、多くの場合成果を挙げられないどころか、逆に税負担増加、貧困・格差の拡大、財政赤字および破綻、生存に不可欠な財・サービスが利用不可能になる、などの形で人々に害をなす。経済政策の失敗を示す例は歴史上無数に考えられるが、ここではロシアの共産主義経済、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」、財政赤字国に対してIMFの融資と引き換えに課す緊縮財政策などにとどめる。

経済学は医学と共通するものがある。小坂井は『医学は科学ではなく、技術だとよく言われます。医学部を卒業する人の圧倒的多数は臨床医になるために、正しい治療の仕方を大学で学ぶ。自分の創意工夫で勝手な治療をされては危険です。医学が技術だと言われる所以です。(同書p41)』と述べているが、経済学は社会科学の中でも「政策技術学」とでもいうべき位置を占めている。経済学者が現実離れした理論に基づいて、勝手に政策を推進することは危険なのである。効き目も副作用もわかっていない薬を飲まされるようなものだ。

歴史的にも、多くの経済学者は彼らが生きた時代の問題を見て、その解明・克服を目指して研究をした。経済学の祖といわれるアダムスミスは国富論を書くにあたって、国全体の富を増進させることに関心を寄せていた。彼は一帝国を経営する上で、重要と思われる見解を詳述しているのであって、学界に配布するために抽象的な専門書を書いたわけではない(「世俗の思想家p83」より)。ケンブリッジ大学初代経済学科教授マーシャルは若いころ自ら貧民街を訪れ、ヴィクトリア朝の繁栄の裏側にある貧困の実態を見たことが、経済学の研究に従事するきっかけであった という。彼はロンドンのスラム街であるイーストエンドを見聞するように弟子たちに促しもした。計量経済学会初代会長のフィッシャーは、「戦争、病気、堕落、そして貨幣の不安定性の撲滅」の実現のために、経済学の面では貨幣数量説を発展させた(「合理的市場という神話p28」より)。ロバート・オーウェン、サン・シモン、フーリエなどのユートピア社会主義者や、マルクスは言うまでもない。このように、社会への問題意識が経済学者の研究へのトリガーとなったのである。

もちろん社会改良を志した経済学者の仕事および試みが果たして、期待した成果を為したかどうかは厳しく確認していかなければならない。問題を解決しようとした経済学者がむしろ諸悪の根源にもなりかねないからだ。ただし、たとえこれまで経済学者が、小坂井のいうように「世界の問題を解決できなかった」としても、それを目指し続ける必要はあると思う。誰かが取り掛からない限り、問題が自然に解決するとは考えづらいからだ(人類が滅亡すれば、問題自体が消滅するかもしれないが)。
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# by healthykouta | 2015-07-15 18:29 | 読書 | Comments(0)
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この国の間接民主主義は、コロシアムで開かれている円卓会議のようなものだ。国民は職業と利害と関心などに応じて、それぞれ場所を占める。円卓の中心には政治家(ここを第1層とする)が、その周りには学者・組織化された利益集団・マスコミが座り(第2層)、更にその外側に、組織化されてない大多数の人々が立ち見をしている(第3層)。立法権という強い権利を持ちながら、選挙次第で職を失うリスクに曝されている政治家は、得票率極大化を狙い、我こそがあなたがたの利益を代弁し、よりよい改革を達成せんとする正義の味方である、ゆえにみなさまの温かい支持(1票)を!と大衆に向かって呼びかける。職業的学者や民間研究者などで構成される「専門家」は、権威を傘に着て自説を主張する。社会保障国民会議を含む有識者会議は第2層で開催されている。当該の政策に強い利害を持つ人々は、第3層から円卓のある第2層まで移動して「利益集団」を形成し、自分たちの共通した利益の実現を、拡声器を通して呼びかける。たいてい経済界は一大勢力をなしている。マスコミはコロシアム全体に聞こえるほどの声で、政治家、専門家、利益集団の声を報じる。

学者同士が意見の一致をみることは少なく、議論は混乱する。しかし、長い目で見れば、世の中というのは、時間が経てば正しい理屈のほうに落ち着く力を持ってはいる。マスコミの記者が賛成派・反対派のどちらが間違っているか学習するにつれて、まず報道が変化し始める。次に週刊誌の煽り文句が沈静化していく。そして義務教育の現場で使われる教科書の記述が変化し、人々の常識として浸透していく。今や天動説を信じる人がほとんどいないのは、皆が教科書でそれを事実として勉強させられたからだろう。しかしそれが定着するまでには時間がかかる。自らの誤解を知る機会がなかったり(その機会を意識的に避けたり)、自説の正しさを信じて疑わない人がいるからだ。だから、血液型で人間の性格を分類できる、コーラを飲むと骨が溶ける、強制従軍慰安婦はあった、金融緩和をすると物価があがる、等の学問的には根拠の薄い説がいつまでも生き残る。

第三層に居座る国民は、大抵目の前の自分の日常生活で忙殺され、ごくまれに時間に第一・二層で話されている声に耳を傾ける程度である。現代では議論の俎上に載る政策は、金融、国防、外交、医療、介護、財政、エネルギー、貿易など多岐に渡り、それぞれに関心を持つ余裕はない。ほとんどの公共政策は、第三層にいる大衆にまで影響を与えるにもかかわらず、実際の政策は第一層・第二層に属する人々の声を反映して決められる。第二層には異なる利害を持つ複数の利益集団が存在しており、声の大きな方の言い分が通るようになっている。いくら有権者が組織化に成功しても、声が他の利益集団よりも弱ければ、彼らの要求は通らない。原則は利益集団同士のパワーバランスで決まる。第三層の個人の声は大抵雑音か素人の戯言として無視される。

この現状をもって、「これは傲慢なエリート主義ではないか!」「民意を、世論を無視するな!」と思う人がいるかもしれない。確かに自分の声が政策に反映されないと感じる人にとって、現状は民主主義だとは言えないのかもしれぬ。だが、彼が思い描く真の民主主義は理念としては美しいが、実現可能性がない。(実現可能性がないからと言って、現状維持が望ましいと主張しているわけではない。)第三層のほとんどの大衆は、第二層まで入ってくる時間的・体力的・経済的余裕がないからだ。まず政策に興味を持つことは稀であるし、興味を持ったとしても、自分の生活における優先度はいきおい低くなるし、しばしば制度や論点は複雑なため理解が難しい。新聞を毎日端から端まで、出来れば新聞各社の論調を比較しながら、読める時間がある、または読みたいと思うほどの体力と関心があり、内容をしっかり把握できる、そんな人はほとんど存在しないという事実がそれを端的に示している。せいぜい自分の生活がダイレクトに利害を左右されると強く感じる特定の政策にだけ反応し、第二層に参加する程度だろう。原発が立地する県民が原発政策に、高齢者が年金政策に、沖縄県民は米軍基地問題に、医師は医療政策に強い関心を持つように。これが現代の平均的な大衆が当事者意識を持てる能力の限界であり、それを超えて第三層の有権者がすべての政策において第二層に移動して、自身の声を政策に反映させることは不可能だ。

では組織化されていない第三層の有権者が損を被るような政策が為されたとき、その責任は第三層の有権者自身が負うべきだろうか。コロシアムの中心で話されていることに関心を持たず、第二層に移動しなかった大衆の自己責任なのだろうか。この問いに答えるのは難しい。人間の能力の限界は測りがたいからだ。一日は誰にでも24時間平等に与えられており、その時間を何に使うかは個人の自由意思によって決められているとも考えられる一方、第3層の人々が多忙なのは、彼ら自身のせいではなく、現在の社会システムが彼らを強制的に長時間拘束しており、第2層へ参加するための自由は実質的に奪われているともいえる。私は程度問題だと思う。自由意思がある程度に応じてその結果に対する責任も生じる。

逆説的だが、この民主主義の成否を分かつのは、大衆ではなく、学者をはじめとする少数の知識層なのかもしれない。無知に陥っている大衆に情報を供給して生かすも殺すも、第三層の立場に立てる彼ら情報強者が左右するからだ。通常第三層の人々は、一見無関係に見える政策の多くが実際自分の生活に影響を与えるにもかかわらず、それを知らない。年金を受け取り始める年齢は60歳から70歳の間で自由に選べること、若者が年金の3号制度ゆえに非正規に貧困になっているという因果、経済界にとっては都合のいい新自由主義的な雇用制度の犠牲になるのが若者であることなども知らない。だからこそ、能力・時間的余裕に恵まれた、専門家やマスコミ、政治家などが第三層の人々の代わりに全体を導かざるを得なくなる。だが、彼らに第3層を含めた国全体の利益を考えるモラルが備わっている保証はない。人類の社会改革の歴史をみればわかるように、正しい意図を持つ者が正しい世界を作れる保証もない。だから、一国の民主主義が機能するか否かは、良識のある知識層がどれだけいるかにかかっているのではないかと思う。

主要参考文献
再分配政策の政治経済学I 権丈善一

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# by healthykouta | 2014-11-13 22:44 | Comments(0)
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A「見よ、世の大学生を。異性と出会い、彼氏・彼女をつくってヤりまくりたい人のなんと多いことよ。社会人になったって、合コン・風俗・クラブは栄えるばかりである。日本のみに限らず、オーストラリアなどの先進国でも性の乱れ(?)は甚だしい!」

B「しかし、彼らを指差して汚らわしいわ!とか軽薄な奴め!とかこの猿!とか尻軽ビッチ!とか批判するのは妥当だろうか。なぜなら性欲は、食欲と睡眠欲と並び人間の三大欲求の一つと言われている。生物的本能に根ざした、それほど強い欲求なのである。寝るな食べるなと言ってもどだい無理なのと同じである。無理なものを求めてどうするのであろうか。まったく仏教徒や禁欲主義者は何を考えているのだろう。子孫を残そうというDNAが組み込まれた動物が、ある時期まで成長すると発情するのと何が異なるのだろうか。人間以外の他の動物は、欲望を抑えたり逆らったりはしないだろう。人間は社会的規範が個人的欲望と対立するだけの話だ。人間も動物である。自然な欲望を否定してどうするのか。

話はなにも性欲に限らない。承認欲求や名誉欲、自己実現欲求といったものもそうだ。人間には物心がつく頃から、人に認められたい、ほめられたい、大切にされたい、評価されたい、すごいやつだと思われたいという欲望がある。そんな人間に、自慢話ばかりするな、いい人を演じるな、出世を目指すな、SNSを頻繁に更新するな、と言っても無駄だろう。それが強い根源的な欲望に基づいているのだから。」

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上記の論法は、自然法哲学者のものの考え方に一致する。彼らは事物の自然秩序から道徳法を導いた。簡単に言うと、ある現象が「自然」なら、それは合理的ゆえに正当化される、という考え方だ。ミュルダールの「経済学説と政治的要素」によると、『自然法哲学の特徴は、「存在」と「当為」とを、現実と義務とを、直接にそして論証の順を経ずに同一視しようとしたことにある。それは単純に理性と自然とを等しいとみている。(p44)』。人間の欲望=自然ならば、それは望ましいというわけだ。

この考え方は、アダム・スミス以降の古典派経済学が提出した「自由放任」という思想の形成にも貢献した。人々は自分自身の利益を追求するが、それは自然なのだから、政府は邪魔するべきではない、という風に。ホッブスやロック、ルソーの想定した「自然状態」の説も同様に、近代社会の原理、国家統治の正当性の原理を置くために構想された試みとして理解できる。(参考:哲学ガイド http://www.philosophyguides.org/qanda/what-is-state-of-nature/

そんな中、18世紀のスコットランドの哲学者、デイビット・ヒュームは、道徳命題の妥当性を疑った。彼は、事実を積み重ねても当為命題は導かれない、すなわち「である」と「するべき」は異質で、その結合は主観的であるがゆえに不確定であるという懐疑を示した。上にあげた性欲や自己実現欲求という欲望が本当に「自然」かという点では大いに議論の余地はあるが、仮に自然だと仮定しても、ヒュームはだからといってそれを充足する行為が望ましいと主張することは出来ないとした。ヒュームに従えば、人間に性欲が自然にそなわって「ある」からといって、性欲を満たす「べきだ」とは言えないというわけだ。

ではいかなる根拠でもって欲望充足行為は正当化されるのだろうか。ミュルダールからの孫引きになるが、J.S.ミルは、「いかなるものもそれが望ましいということの唯一の証明は、人々が実際にそれを望んでいるということである。幸福は誰でもそれを望むから望ましい」と論じた(p80, 同書)。果たしてそれだけなのだろうか。欲望を正当化するのは欲望以外にはないのだろうか。

もちろん、あらゆる欲望を社会が無条件に承認することはない。たとえば、人を殺したいから殺す、といった犯罪行為は、許されていない。理由としてあげられるのは、法律で定めているためとか、功利主義的にダメとか、「己の欲せざるところを他人になすなかれ」という格率を根拠にしたり、「ならぬものはならぬ 」といったものまで。このように現実社会では様々な理由をあげて欲望充足行為を制限している。
(参考:会津藩校 日新館HP http://www.nisshinkan.jp/about/juu



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参考
図解・マンガ 公的年金のこと、どのくらい知っていますか
http://www.mhlw.go.jp/nenkinkenshou/index.html

厚生労働省 社会保障教育HP
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000053851.html

年金制度にまつわる事実に対する誤解に基づいて主張された説、すなわち「ひっかけ問題」を自力で解けるようになるにはどうすればいいか。というのも、今回はたまたま訂正してくれる人がいてくれたからよかったが、次回以降はどうするのか。今回T教授(が生み出したとされる年金債務超過論という迷信)を論破しても、また第2、第3のT教授が、社会保障以外の世界でも現れるかもしれない。間違えない人間なんてまずいないのだから、大事なのは、間違いに気づいて訂正できる力だ。ドラえもん(賢者)がいなくても、のび太(B層)がスネ夫のウソを見破るにはどうすればいいのだろうか。

まず思うのは、不穏な言葉から醸し出される印象に感情を奪われないことだ。「破綻」、「崩壊」など負のキーワードが示されたら、その根拠、内実を知って上で判断しないといけない。権威の発言も信用してはならない。弘法にも筆の誤りという言葉があるように、エライ人もときには間違える。本質的には、学者やマスコミの説も、学生がつくるシケタイ(試験対策用のノート)と変わらない。そのレジュメの作成者すら引っ掛け問題にだまされている可能性はある。さらに、論の片手落ち加減に頭を働かせることだ。スポットライトが当たっていない暗い側、すなわちその論が言及・網羅していない面に自力で思いが及ぶようにならないといけない。「タダより高いものはない」「きれいなバラには刺がある」という諺を経験的に知る主婦が試供品の配布に警戒できるように、現状を改革するという案には常に用心しなければならない。今回のケースならば、年金の税方式や積立方式への移行は本当にいいとこづくめなのか、考えてみなければならない。現状を変える際になにが起こるのか、そもそも移行できるのか(実現可能か)。改革を唱える者の中には、それがいかなる悪影響をもたらすかまで予期していない人がいるが、同様のケースは他でも起こるかもしれない。

世代間格差論のたぐいに対抗できるようになるためには、想像力をつけないといけないだろう。特に経験してない過去や、自分と違う世代の人生について、想像する力を育まないといけない。「お年寄り世代は年金で多めに受給できてズルイ!」と考える今の若者は、人生を取り替えて、昔(戦前・戦後の団塊の世代として)に生まれ変わったとしたらどんな人生を送ることになったのか想像してみよう。当時インフラは今ほど整備されておらず、結核で死ぬかもしれなかった。戦争に行くことになったかもしれない。インターネットはない。大学に進学できたかもわからない。老人ホームはほとんどなく、親を私的に扶養する負担があった。このように想像できれば、自覚してない現在享受している恩恵に気付けるかもしれない。「昔はよかったのに・・・」とか、「いまどきの若者はケシカラン!」という類の発言をする人はよくいる。そんなときは、「昔もよくないところはあったのでは?」とか、「今の若者にもいいとこだってある!」と想像力を働かせつつ、会話の空気を無視した指摘を大真面目にしていかないといけない。物事の片面だけを挙げて好みを表明する人は多いが、本来は両面とも知った上で同意を示すべきだ。

最後に、そしておそらく最も重要なのは、徹底的に因果関係を検証することだ。言いかえれば、結論を支える根拠・前提を疑うということだ。本当にAという命題がCを導くのか、A→Bは成り立ち、その上でB→Cなのか、細かく確かめていく必要がある。「なぜ」と一回問うだけでは不十分だ。なぜなら、

「世代間格差がある!」
「なぜ?」
「給付>保険料負担だから。」
「納得。」

「年金は破綻している」
「なぜ?」
「債務超過、世代間格差、未納増加、少子高齢化だから。」
「そうか。」

このように、どんな主張にも一応の根拠はある。そしてその根拠が示されたら、そこで思考停止してしまう人は多い。だが、その根拠を詳しく検証しなければ、裏に隠れている前提のおかしさに気づけない。例えば割引率に利回りを使うことや、100年間マイナス1.2%の経済成長という想定に。どうして未納が増えたら年金は「破綻」するのか、他の国の政策論議では年金バランスシートはどのように表わされているのか、高齢者1人を現役世代で支えるという指標は、状況を正確に表しているか?と問えなければならない。

引っかけ問題を解くには、石橋を叩いて渡るような慎重さで、緻密に考えていく必要がある。
それをめんどうくさがっていては、細部に潜む悪魔に気付けない。

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# by healthykouta | 2014-11-10 00:35 | Comments(0)