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じこせきにんって?

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なぜ私は現在の恵まれた境遇を享受していいのか。どこにも因果関係は見当たらない。気がつくと生を受け、割にいい両親や友達に囲まれ、大した病気や経済的苦労もなく、これまで安穏と育ってこれた。奇妙な偶然か運命としか言いようがなく、なぜ私はこの時代に私として生まれたか、答えはない。「前世に善行を重ねたからだよ」などと言われたら納得できそうだが、前世の記憶なんてこれっぽっちもないので、全く説得力はない。私を虐待する両親の下に生まれてきても全くおかしくはなかった。

生活保護を申請しなくては生活がおぼつかなくなってしまうようなワーキングプア達は、なぜ貧困状態にならなければならなかったのか。なぜ「私」でなくて「彼ら」でなければならなかったのか。そこに必然性はあるか。どこにも因果関係はないように思える。ある人は「自己責任」という言葉で説明する。原因をつくったのはその人自身だから、その結果招いた、いかなる影響もその人が全て受け入れるべきであり、他の誰も責任を負う必要はない、というものだ。自業自得。でもどうやって責任を確定できようか。例えば、ある大学生が人を殺して逮捕されたが、身元を調べてみると過去に両親からの激しい虐待があったとする。その結果彼が非行に走りがちな傾向にあることはよく指摘されることだが、本当に悪いのは果たして彼だけなのだろうか。殺人という犯罪行為を直接起こしたのは彼かもしれないが、その行為を引き起こすに至った原因を全て彼に帰することはできるのだろうか。これまでの彼の人生に影響を与えた全ての事柄(先天的な身体異常・疾病の有無・受けた教育の質・両親からの愛情・人間関係・経済環境、社会の状況etc...)も原因に期するべきではないのか。虐待される両親の下に生まれた赤ちゃんは、他の赤ちゃんと比べて何か悪いことをしただろうか。そんな風に考えていくと「責任」という概念は非常にあやふやなものになってくる。

自分はこんなに恵まれた境遇を「無条件に」享受していていいのか。今後も、自らの幸福だけを追求していいのか。この本に出てくるような、苦しんでいる人々の存在を知りながら、その問題を放置していいのか。彼らを無視していいのか。周りの学生のように、いい会社、高い年収、出世、成功、ぬけぬけとそんなことをしていいのか。貧困はいつの時代も国を問わず、根絶されたことはないだろう。だからといって貧困を放置してもいいのか?

「一度知ったことを、知らなかったことにしない。」
と湯浅誠さんは言った。私はもう知ってしまった。私の生活レベルよりはるかに下で貧困にあえいでいる人が日本にも大勢いるということを。かといって私に何が出来るのだろうか。

幸福って無知の上にしか成り立たないものだなあとつくづく思う。大勢の不幸な者が世界のいたるところに存在することを知れば、自分一人が幸せになっていいのかと思う。幸せを感じるには、彼らのことは忘れていなければならない。なんとなく後ろめたい気持ちになるからだ。宮沢賢治は、

”世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。”

という言葉を残しているが、その意味するところはこういうことなのではないかと思う。
by healthykouta | 2013-05-29 11:26