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なぜ神社で鈴を鳴らすのか?

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おととい、たまたま鴨川近くの通りで、上御霊(かみごりょう)神社のお祭り(御霊祭り)に遭遇した。白いはっぴを着た男たちがみこしを担いて、「えらやっちゃ!えらやっちゃ!」 という掛声を繰り返しながら神輿を上下に振り、神輿の上に付いた大きな鈴を鳴らしていた。日本人は神社で鈴を鳴らしてから祈る習慣を持っているが、どのような歴史的経緯・理由でそのような所作になったのだろうか?

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神社本庁のHPによると、『社頭に設けられた鈴は、その清々しい音色で参拝者を敬虔な気持ちにするとともに参拝者を祓い清め、神霊の発動を願うものと考えられています。』とある。(http://www.jinjahoncho.or.jp/iroha/omairiiroha/suzu/)

神社オンラインネットワーク連盟によると、『一説によると、古来から鈴には魔除の霊力があるとされ、それが転じて、神事のときに鈴を鳴らすようになったようです。 巫女(みこ)が神楽舞(かぐらまい)を舞うときに、手にもって鳴らす神楽鈴(小さな鈴を山型に並べた鈴)、その音には神さまをお招きする役割があったそうです。 つまり、神前で鳴らす鈴も、この神楽鈴に由来するとされ、神さまを拝礼するにあたり、鈴のその清らかな音色で神さまをお招きし、これから祈願を申し上げるという、一種の合図のような役割を果たしているのです。 』(http://jinja.jp/modules/chishiki/index.php?content_id=109)

まとめると、鈴には、
・古来から魔除の霊力があり、
・参拝者を敬虔な気持ちにさせ、
・神さまをお招きする役割があるという。

でも、なぜ鈴には魔除けの霊力が宿ると昔の日本人は考えたのか?については情報がない。いまから5日前の出来事に、この問いに答えを得るヒントがあった。5月15日には、京都・三大祭りのひとつ、葵祭(賀茂祭)が執り行われていた。

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葵祭の起源は、今から約1400年前の欽明天皇(在位539~571、筆者補足:百済から仏教が伝わったときの天皇)の頃に、国内は風雨がはげしく、五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった、卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)を勅使として、4月の中酉の日に祭礼を行い、馬にはをかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったことだという。(引用元:https://www.kyokanko.or.jp/aoi/enkaku.html)

つまり、たまたま当時、卜部伊吉若日子 (うらべのいきわかひこ)という人間が鈴を馬にかけて振ったら、それまで苦しめられていた災害がピタッと収まったから、その後も鈴に不思議な力があると信じられていったのではないだろうか。いいかえると、この偶然経験された成功体験が、きっとその後も鈴が信仰されることになった本当の理由だと思う。だとすると、もし卜部伊吉若日子 が馬に鈴ではなくコマネチをしていたら、現代日本では参拝者は鈴を鳴らす代わりに神前でコマネチをしていたかもしれない。よかった。ドラえもんでもこういう話があった気がする。

わたしたちは、ルーツを知らずに、単に他人の模倣から行っている習慣をもつ。神社で鈴を鳴らしたり、祇園神社・下賀茂神社が有名だから、「世界遺産だから」行ったりする。しかし、なぜそれを鳴らすのか?それにどんな意味があるのか?なんでこの場所は有名なのか?という素朴な質問さえ発すれば、今やネットの力を借りて、簡単に答えへのヒントへアクセスすることができる。目の前の現象にメスを入れ、その背後に潜む歴史へとたどり着くことができる。わたちたちが日常目にし、手で触れ、耳で聞く、あらゆるものに歴史は隠れている。特に語源の理由、有名の理由、行事の理由などに典型的に。それを探る行為は、テーブルの下から手品のトリックを見上げるときのようにたのしい。対象に関する知識が背景にあったほうが、目の前のモノをより楽しめる。

以下は京都にまつわる雑学。

ところで、上御霊(かみごりょう)神社のお祭りは、何の祭りなのだろうか。当初はマイナーなお祭りかと思ったが、由緒を調べてみてびっくりした。1300年前の平安時代の初期にルーツがあるという。そして桓武天皇というビックネームにたどりつく。上御霊神社は、早良(さわら)親王(750~785)=桓武天皇の弟!(当時皇太子)を祀る神社だ。彼は、藤原氏が政権を握るための政争(785年、藤原種継暗殺事件)に巻き込まれて流罪になり、その後、淡路に連れていかれる途中で絶食して自害?したという。その後、都で不吉なことが続き、その原因が彼の「祟り」にあると当時の人々に恐れられたため、淡路島から奈良の大和に彼の墓を移すだけではなく、祟道天皇という「尊号」(これ、つまり生前は天皇になれなかったから、ごめんなさいの意味をこめて、ってことか)を贈り、上御霊神社を建てたという。奈良時代~平安時代の初期ごろ、人に恨みを残したまま無実の罪・疫病などで非業の死を遂げたとき、死後人々に祟るとされた怨霊の存在を信仰する御霊信仰がはやったらしい。863年にはじめて御霊会(ごりょうえ)が宮廷行事として神泉苑で行われ、上、下の御霊神社が設立された。菅原道真は有名な例。祇園も御霊信仰の中心地。

こんな由緒を、おそらく今日の祭りの参加者の多く、特に神輿をかついだドカタ風の兄ちゃんたちは知らないだろう。今や祟りなんて信じている人はいない。だいたい祟りって何年祭りを繰り返したら、早良親王は許してくれるって話だし。ではなぜ京都市の人々は、今もこの祭りを行うのか?と聞けば、「代々受け継がれてきた伝統行事だから」と答えるかもしれない。いや、それだけではないだろう。もっと別の、彼らにとっていい理由があるはずだ。祭りには、地域の団結を強化する機能があると思う。定期的に集まることで、絆を深め、自治意識の向上が期待できる。そしてハレの日として騒ぐことで、日頃のストレスを解消できる。当初の信仰は消え、祭は世俗化したが、依然としてその慣習は続いている。そして日本人はちゃっかりしている。太宰府でまつられている菅原道真の祟りを恐れ参拝する人は今やいなくなり、彼が「学問の神様」として単に受験生の崇拝対象になっているように、日本人は当初の意図は無視して、都合に合わせて利用目的を変えているように思える。

by healthykouta | 2016-05-20 20:06